あいさつ

家の近くの山に登っていると、山から降りてくる人たちに挨拶される。
「こんにちはー」
知らない人でも挨拶するのは、山のマナーだ。
人気のない山で挨拶をしあわないと身を危険にさらすことになる。
山での挨拶は大事である。

山の中に限らず、街の中でも、知らない人同士、挨拶しあえばいいのにと思うのだが、都会では知らない人の数も多く、なかなかそうはいかない。
現代の人は、「知らない人に挨拶しあうという面倒臭さ」と、「挨拶しあうことで守られる社会の治安」を天秤にかけ、「面倒臭さ」を取ってきた。
しかし、その天秤が「面倒臭さ」のほうに極端に傾いていたのか、ほとんど均衡状態でぎりぎり「面倒臭さ」が勝ったのかはわからない。
山の中で挨拶してくる人たちの、日常生活の中でも本当は挨拶しあいたいんだろうなと思わせるような元気な挨拶に、まだ山を登り始めたばかりのこちらは少々、面食らう。

山に登って、頂上を満喫すると、すぐに山を降りた。
お昼の3時を過ぎているのに昼食を取っておらず、なんでもいいから腹にものを入れたかったのだ。
山を登ってきた際、登山口のすぐそばに『松屋』があったことを思い出し、店に入って牛丼を注文する。
牛丼が来るのを待っているいる間、食事を終えた人たちが、店を出ていくのを横目で眺める。
「ごちそうさまでしたー」
食事を終えて出ていくお客たちはドアを開きながら一言残していく。
食事をし終わった後、「ごちそうさま」と言うのは、日本のマナーだ。
でも、それを安い牛丼チェーン店でまで言うかどうかは、人によって分かれるところだ。

別に、牛丼屋でもどこでも「ごちそうさまでした」といいたい人は言えばいいと思うが、悲しいのは、その「ごちそうさま」に、まったく返事が返ってこないことだ。
『松屋』は事前に支払いをするシステムなので、店のスタッフは、食べ終わった人にかまってくれない。
次にやってくるお客の準備に精一杯で、出ていく客の「ごちそうさま」という声は、むなしく店内に響くだけなのだ。

「ごちそうさま」と言いたい人の気持ちはわかるし、ぼくもいつも小声で言っているが、いかんせん、システム側が「ごちそうさま」を拒否している。
業務をスリム化したいチェーン店にとって、「ごちそうさま」への返答は無駄な仕事。
今は、何割かのお客さんが、自身の信条から「ごちそうさま」と頑張って口にしているが、これがあと5年、10年すれば、虚しさに耐えきれなくなったおじさんたちが、一人、また一人と脱落していき、皆、無言で店を後にするようになるだろう。
機械化とマニュアル化が進めば進むほど、挨拶は社会から消えていく。

『松屋』を後にし、自転車に乗って家に戻る。
その道すがら、まったく知らないおじさんにいきなり大きな声をかけられる。
「おかえりなさい!」
知らない人に大声で「おかえりなさい」と言うのは、どこの国でもマナーではないはずだ。
そもそも、「おかえりなさい」か「いってらっしゃい」なのかは、人によって違う。
夕方からお勤めの人もいれば、朝に仕事が終わる人もいる。

このおじさんは、いつもあてどなく街を歩いていて、誰かれ構わず行き交う人たちに挨拶をしている。
「まちのボランティア」的な、なにかの団体に属している人なのかとも思うが、それらしい格好をしているわけではない。
おそらく、個人的に「挨拶運動」をしているおじさんなのだろうと思う。

おじさんの「誰かれ構ないぶり」を見ていると、もしかしてボケているのかなとも思うが、ボケているにしては、相手に合わせて声掛けの内容を変えているので、ボケていないのかもしれない。
おじさんに声をかけられ、驚く人も、怯える人も、慣れているのか、当たり前のように返す人も中にはいる。
ただ、都会で個人的に「挨拶運動」をしている人は稀なので、驚くという反応が「正解」のようだ。
そういう「稀なこと」は、ある程度社会からはみ出して、「ボケ」と「とぼけ」のライン上にいるような人でないとできない。
もし、若い、健康的な若者が行き交う人全員に挨拶をしていたら、それは、街頭演説かなにかの勧誘だ。
「宗教」か「政治」のどちらかがからんでいると見て間違いない。
それほど、都会ではむやみな挨拶はご法度である。

ただ、このおじさんがうろうろしている地域では空き巣も寄り付かないだろうと想像する。
常識から外れた人がいる場所では、犯罪もやりにくい。
都会の人たちが天秤にかけて捨て去った「社会の治安」は、このおじさんが一人で肩代わりしている。
「こんちには」「ごちそうさま」「おかえりなさい」
こんな簡単な言葉がけを捨てて、その代わりに得た都市社会とは、一体どれほどのものだろうなと思い、「おかえり」と大きな声で小さな子どもに挨拶するおじさんに、「ただいま」と一人返す。