凹と凸

夫婦や恋人は「つがい」である。
凹と凸で互いを補いあう。
凹の男は凸の女を求め、
凸の女は凹の男を探す。
兄弟も同じ。
「つがい」ではないが、年上の兄や姉の振る舞いを見て、
弟や妹は自分の振る舞いを決める。
親子だってそう。
子は、凹な親を見て「自分は(反対に)凸になろう」と考えたり、
「自分も同じ凹になって凸の奥さんをもらおう」と考える。

生き物は単体としては不完全で、
凹と凸がともにあってはじめて完成形になる。
自分に足りないところがあると自覚する人間は、
周りの人と協力することで、足りない部分を補おうとする。
一人でなんでもできるなら、
結婚する必要もないし、親も兄弟も同僚も会社も必要ないが、
そんな人はほとんどいない。
人はだいたい色んな部分が欠けている。

にもかかわらず、現代は、一人の人間に多くのことを求める。
全員がユーティリティープレイヤーであり、
みんなが各々「ひとりでできるもん!」。
情報を集めて分析し、アイデアを出して図にまとめて、社内に周知させ、
リーダーシップをとって、組織をマネジメントし、外部とネゴシエイトする。
それらを全部、ある程度のレベルで、だいたいできるのが現代人。
「愛想の良さ」一本、「几帳面さ一本」だけではもう生きていけない。
マクドナルドの店員ですら、目の前の客に応対しながら、
耳につけたヘッドマイクで、ドライブスルーの客にも対応している。

常に、仕事上で「マルチタスク」が要求され、
母親や妻などの「役割」としても「マルチロール」が求められる。
「キャリアウーマン」としてバリバリ働きつつ、
「母」として育児も家事も完璧にやる。
旦那の親とも仲良くして「嫁」としての役割を申し分なく務め、
ヨガやエステなど「一人の女」としての自分磨きも怠らない。
男社会に屈せず、加齢にも負けず、
部下には優しく、十分な経済力をもち、
決して子どもを怒らず、いつも笑顔で笑っている。
そんな理想的な人間、宮沢賢治の詩の中にしかいないだろう。

江戸の時代、主体は「個人」ではなく家や藩など「集団」にあった。
それによる弊害や惨禍はたくさんあっただろうが、
個人は、一つか二つの役割を担っていればそれで事足りた。
商店の店主の交代が代々「襲名」で済んだのは、
大切なのが「個人」ではなく「役割」だったからだ。
何代代表が代わっても、名前は同じでよかった。

それは現代から見れば、個人をないがしろにしているようにもみえるが、
彼らは、長いスパンで物事を考えることができたし、
自分の個性を周りに認めさせようと努力する必要もなかった。
「自分」のことを「自分ひとり」のことだと思わずに、
「親と自分と子ども、3人合わせて、ひとりの自分だ」くらいに思えば、
目の前の仕事にあくせくすることがない。
3代後の未来を考えながら仕事に取り組むことができ、
目に見える成果が自分の代で出なくても問題はないだろうと考える。
「四半期」で成果を出すなんて、思いもよらなかった。

「祖父母が凹で、親が凸で、自分が凹で、子どもが凸で」と、
親子3代・4代で積み木を組み合わせるように完成形を作っていければ、
自分ひとりが「個人」として完璧である必要はない。
自分はただの凹として、4世代の中の「部分」を頑張ればいい。

しかし今は「全体」がないために、「部分」になることもない。
自分が凹だとわかっていても、
どこにはめればいいのかがわからない。
下手にどこかにはめようとしても、それは誰とでも取替可能な凹であり、
使い捨てされるだけの凹でしかない。
掛け替えのある凹と自覚できるだけに、他の人に取替えられないように、
短いスパンで凹としての成果を見せようとするし、
「自分、凹だけでなく凸でもいけます」というところもアピールする必要に迫られる。

社会学者の小熊英二は近著『日本社会のしくみ』の中で、
1950年代に2500万人いた「自営業者とその家族」の半分以上が、
この50年で「雇用者」側に転じたことを指摘している。
5,6ピースが集まって「全体」を構成していた凹凸が、
今は、1000や10000ピースが集まる「全体」の「部分」をやっている。
ピースが多すぎると、「全体」は見えない。
自分がどの「部分」を担っているのか、実感もできない。
この国の若者が「やりがい」や「承認」を求めるのなら、
1万ピースで構成される会社や、不特定多数が集まるSNSでなく、
手足で数えられるくらいのピースで作り上げる「全体」の「部分」になる方向に
進むしかないんだろうと思う。
自分の性能を最大限に活かす時に、
人はもっとも輝くのだから。