卒業

コロナウイルスが様々なところに影響を与えている。
学校のほとんどは休校になり、
通勤ではなくリモートワークに切り替える会社も増えた。
デマに踊らされて、スーパーやコンビニからは、
マスクだけでなく、トイレットペーパーやオムツも一時消えたと聞く。
政府の急な要請で学校を閉めることになった全国の小中高校は、
休校にするか、するとしたらいつからなのか、
休校にしたとして親が家にいない家庭の子はどうするのか、
卒業式はどうするのか、成績はどう付けるのか、
入試の日程はどうするのかと、対応に迫られていた。
時期が、入試・卒業シーズンということもあり、
休校にしたとしても、卒業式や入試だけは行いたいらしく、
短縮したり縮小することで、
なんとか式だけは執り行うことに決めた学校が多いようでだった。
ぼくが関わっている高校も、卒業式だけはなんとか決行することになった。

卒業生にとって最後の締めである卒業生は大事なのだろうが、
コロナの驚異(というか自粛)を前に、
来賓の出席はなし、在校生の出席もなし、卒業証書授与も代表者だけ、
席はなるべく離して、全員マスク着用で、
握手などの接触も禁止という取り決めでの開催となった。
保護者も卒業生も全員がマスクをして、
教諭は全身黒の式服を着て粛々と進められる式は、
なんだか葬式のようだった。
体育館は紅と白の紅白幕で覆われていたが、
赤と白が黒と白に見えるくらい、
式はいつもの卒業生のすすり泣く声も、
在校生の喜びの声も、保護者のおしゃべりもなく、
静かに始まり、静かに終わった。

規定により、在校生は誰も参加することができなかったが、
二年生の生徒会長だけは、在校生代表として送辞を送らなければいけないので、
一人、在校生の椅子に座っていた。
「春のうららかな風が頬に触れる三月」で始まる送辞は、
久しぶりに聞いた修辞的な表現で、ビジネスのやり取りでも、
意味のない文頭・文尾のおべんちゃらが次第になくなっている現代では、
新鮮な響きに思えた。
式辞とはそうした「形」を重んじるもので、
意味や内容をそこに求めても仕方がなく、
そこに意味を求めるのは子どもで、
「なんで生徒会長が学年の代表みたいな顔して、
個人的な思い出を壇上で話すの?」
と食いかかっていた高校時代のぼくにも、
送辞も答辞も校長先生の言葉も、式での挨拶に内容など、
あってもなくてもどっちでもいいと知らせてあげだい気分だ。

生徒会長の送辞の後、卒業生代表として一人、
卒業証書を校長先生から受け取った男子は、
過去のぼくに似て、体制や形式に対して反抗ばかりしていた生徒で、
入学した時から、式に反抗し、校則に反抗し、感想文に反発していた。
その高校も、創業年の長さだけを拠り所にしいているような古い高校なので、
伝統や校風を壇上から誇るくらいしかないのだが、
先生や校長がその「高校らしさ」を口にするたび、彼は悪態をついていた。
その反抗の仕方がまったく健全な高校生で、微笑ましく見ていた。

そんな彼が生徒の代表として卒業証書を受け取るなんて、
大人になったもんだなあと思っていると、
「別に、前日に、担任から電話かかってきて、頼まれたからやっただけですよ」
と、口をとがらせて否定してきた。
別に、体制側になびいたわけじゃない。
そう、反体制として頑張ってきた彼は説明した。
それが嘘でないことに、最後の最後まで、学校側が望んだ大学には行かないと、
先生との話し合いすら突っぱねていたし、
卒業証書を授与された際も、代表者として名前を呼ばれたのに
返事をせず、無言で壇上に上がっていた。

「だったら、なんで私に譲ってくれなかったの」
そう話に割り込んできた女子は、
入学した時から授業中勝手に立ち上がって無言でトイレに行ったり、
授業中、机の下で、友だちと大富豪(トランプゲーム)をしたり、
皆が白いマスクをしている中で、
自分だけ黒のマスクをして卒業式に出ようとしたような子だったので、
「なんで、お前に代表を任せなきゃいけないんだよ」と制したが、
素行の悪さとは裏腹に、彼女はセンター試験で、学年中最高点を取っていたので、
自分が学年代表にしてもらえるんじゃないかと、
ひそかに、担任の先生からの電話を家で待っていたらしい。
「私はね、最後くらい、親にそういう、立派な姿を見せたかったよ」と、
三年間、散々、親に迷惑をかけた彼女は、けなげな気持ちを吐露していて、
そういう殊勝な気持ちもあったんだなと、意外な感に打たれていたら、
それを聞いていた別の男子が、
「なんで学校が、コロナウイルスのリスクをできるだけ無くして、
穏便に卒業式を済ませようとしてる時に、
お前みたいな何するかわかんない奴を代表にするっていう、
多大なリスクを侵さなきゃいけないんだ」と、
核心をついたことを言い、彼女は「うっ」と、返す言葉に詰まっていた。

卒業式であっても入学式であっても、式はいつも形式的なものだが、
形式的なものは、「ここで終わり」と、過去と未来の間に、一本線を引く。
形式的でも形骸的でも、一本線を引けば、そこに一つ、区切りができ、
人は、次に向かって歩を進められる。
だから、葬式のような式であっても、マスクだらけの奇妙な式であっても、
やるに越したことはないと思う。

このまま行くと、4月に開催予定の大学の入学式も中止になり、
大学生活が「式なし」でスタートすることになりそうだが、
大学は、学生が主体的に学んでいくこと場なので、
人から与えられた式ではなく、
自分で勝手に線を引いて、自分なりのスタートを切ってほしい。
形式や体制や先生に文句を言うだけの日々は、高校で終わり。
これからは、文句言う相手が何なのか、
どこに文句を言えばいいかわからない世界を生きていくステージに突入するのだ。
長い大人としての戦いの始まり。
とりあえず、第一ステージの卒業おめでとう。