祝言

大学生の頃、結婚式場でアルバイトしていたことがある。
知らない人の結婚披露宴を何組も見ることになるわけだが、
新郎新婦と関係のない自分が見ても「いいな」と思えるような披露宴は、
2、3組しかなかった。
そして、そのうち2組は、いずれも新郎新婦がクリスチャンだった。

通常、結婚式では、参列者が新郎と新婦を祝福するが、
本当の意味で二人を祝福できるのは、「二人の先を行っている者たち」でしかいない。
たとえば、仲人とか、神様とか、
この先、この若い夫婦が直面する困難や障害を知っているような人たち。
知っていてなお、二人が進むことに対して祝福ができる人たち。
それらの人たちが、これから二人に訪れる困難を思いながらも祝福するというところに、
本来、祝福の価値はあるはずで、
結婚の酸いも甘いも知らない同年代の友だちが、「おめでとう」と言ってみても、
その言葉に、祝福の重みはあまりない。

しかし現代は、離婚が容易になったり、
「家」に入るという意識が薄くなったりで、
結婚に付随してやってくる障害や困難がなかなか見えにくい。
だから、結婚式において、
新郎新婦は自分たち自身で、「ふたりの軌跡」を描き出し、
友人に「ふたりのドラマ」を手紙で読んでもらうことによって、
これまでの障害とこれからの困難を、自ら演出することになる。
しかし、そこにあるのは同年代や自身からの「横目線」だけで、
これから訪れることを予想できる先人たちによる、「縦目線」の眼差しは存在しない。

以前は「仲人」というシステムが当たり前にあり、
仲人システムの良かったところが、この「縦目線」で、
すでに、結婚の困難を自らの体験として知っている仲人が、
「それでも、この先、二人で歩むことには価値があるんだ」ということを、
若い二人に伝えることにあった。
今の結婚式(披露宴)は、「先を行く者」の視点が欠けている分、
どうしても、ノリが軽くなってしまう
(だからといって、高砂席に座っていただけの昔がよかったとは思わないが)。

ただ、仲人が流行らなくなったのは、
なにも、新郎新婦が先人からのアドバイスを求めなくなったからではなく、
夫婦の在り方が様々になってきた時代に、
仲人を頼めるような先輩夫婦が見つかりにくくなったからでもある。
「らしさ」を結婚式で求めるような現代カップルの理想に当てはまる先輩夫婦など、
ほとんど幻想と言っていいくらい、世の中には見当たらない。
「数十年先往く夫婦たち」をなぞっていればよかった時代とは違い、
それぞれの夫婦像を作っていかなければいけない今の人たちに、
仲人システムはフィットしないのだ。

仲人が機能していた頃、
仲人の二人は新郎新婦の「数十年先を歩く者たち」だったが、
その仲人がいなくなった今、
本当の意味で「先を歩く者」として二人を祝福してくれるのは「神様」である。
二人の未来に様々な困難を見ながらも、
「病めるときも健やかなる時も、互いに支え合って、ガンバ・ガンバ!」と
祝福の言葉や、米や羽を降らせてくれるのが「神様」で、
その「神様」の祝福の言葉を、
人間にわかるように間に入って伝えてくれるのが聖職者や僧侶だ。
しかし、その「神様」たちの言葉をしっかり伝えてくれるような聖職者や僧侶は、
どこの宗教施設でも、あまり見かけない。
俗の気配を感じさせない宗教者など、ほぼいない。
寺や神社のような宗教施設でもそのような宗教者は見当たらないのだから、
披露宴会場に取って付けたようなチャペルや室内神社には、
「神様」の声を届けてくれる人は、まずいないだろう。
間に入る人がいない宗教施設では、
「神様」の言葉は、どうやっても、うまく新郎新婦に届かない。

宗教人の欠如によって、「神様」の言葉が届きにくいのと同じように、
普通の人々の祝言も、祝いの言葉として、二人の耳に届くことは少ない。
その人が「おめでとう」と言うだけで
二人が「有り難い」と感じるような「祝福の言葉」をかけられる人は今や稀有で
(昔はいたのかな)、
天皇陛下くらいしか、すぐには思い浮かばない。

その人が吐いた言葉に祝福が宿るような、「お目出度い人」は、
だんだん世の中から消えかかかっており、
テレビにもインターネットにも、
誰かを貶める「呪いの言葉」は溢れているのに、
誰かを慶ぶような「言祝ぎの言葉」は、滅多に聞かれることがない。
誰かを言祝ぐ言葉が、そのまま「祝詞」として力を持つような「お目出度い人」は、
どこにいけばいるのだろうか。

スタジオジブリの作品『風立ちぬ』の中に、
結婚式をあげるワンシーンがある。
病に侵された女性・奈緒子と、ゼロ戦の考案者・二郎の式が、
上司の家で執り行われる様子が描かれるのだが、
参列者もおらず、上司の口上のみの式にもかかわらず、
その式は、意義ある素晴らしい式だと、観客に感じさせる。
それは、結婚する二人の行く先に、
「不治の病」と「戦争前夜」という、明らかな困難が待ち構えてることを知りながら、
上司夫婦が、新郎新婦を祝福しようとするから。
二人が困難であればあるほど、祝福は意味を持つのだ。

それが、現代のように、離婚も再婚も、事実婚もシングルマザーも、
あり方の一つとして、なんでも容認される時代では、
祝福の言葉に力が宿らない。
もちろん、家族や夫婦の多様なあり方を社会が認めることは悪いことではないだろうが、
多様なあり方の容認は、
若い二人の「区切り」をぼやけさせる。
「今」を認められた人々は、わざわざ区切りをつけようとしない。
スタジオジブリの宮崎駿監督は、以前、
「今は、子どもが始められない時代」と言っていた。
「区切り」を強要しない社会では、
若い二人はスタートを切りにくく、新たに始めるきっかけをつかめない。
若者が結婚しなかったり、子どもをなかなか作ろうとしない原因は、
「独身のままでもいい」「子どもを作らないなら、それでいい」
と、社会が多様性を許容しているからでもあるだろう(いい悪いではなく)。

大学時代、「いいな」と思えた3組の結婚披露宴のうち、
2組はキリスト教徒によるもので、
牧師さんやシスターがスピーチするだけの簡素なものだった。
そこにはきちんとした神様がいて、
神様の言葉を届ける人々の祝福があった。

それは素朴に宗教を信じられる人たちの式で、
信仰する宗教のない自分には縁遠いなと思ったが、
残る一組の式は、キリスト教とは180度違う、
親戚一同がしゃもじをかき鳴らして踊るまくる、賑やかな式だった。
しゃもじで土地の神様を呼び起こす広島の一団は、
皆で円になって歩き回り、
しゃもじをカチャカチャいわせながら、祝言を挙げていた。

日本には、土地のあちこちに、神様が八百万もいるという。
それなのに、神様からの祝福が結婚式で聞かれなくなったのは、
牧師や神主がちゃんと聖職者としての仕事をしていないという理由だけではなくて、
二人が、神様をちゃんと呼んでいないからではないだろうか。
神様は、いたるところに、八百万もいるんだから、こちらから呼べば、
どこかの神様が祝福してくれるはず。
二人が招待状を一番始めに出すのは、
実は、友人ではなく「神様」なのかもしれない。