違いのわかる人

成人式の式典で、壇上にあがった中学校の先生は、
新成人へのあいさつとして、
「違いのわかる人になってください」と言っていた。
僕の周りの新成人たちは、
先生が話している最中も、久しぶりの再会で、おしゃべりに夢中だったので、
あまり先生の話は聞こえてこなかったが、
「違いのわかる人になれ」だなんて、
新成人に送る言葉にしてはなんだか地味な言葉だなと思って聞いていた。
それでも、 今、その時言われた言葉を覚えているってことは、
そんなに地味な言葉でもなかったのだろうか。
その時は、ネスカフェのCMしか思い浮かべていなかったけど、
「違いがわかる」という言葉に、
なにかひっかかるものがあったのかもしれない。

インターネットができて以降、
調べ物は本とインターネットの両方でするようになった。
高校で生徒たちは、インターネットを使っていろんなことを調べるのだが、
信用できる情報と信用できない情報の”違い”がまだわかっていない。
どこからどうみてもうさんくさそうなサイトを熱心に読んでいたり、
ウェブ上で拾い集めただけのまとめサイトにある情報を根拠にしようとする。
それは多分、まだ彼らに訓練が足りていないから。
まだ、嘘の情報に騙されたり、
煮え湯を飲まされたりしたことがないから。
それは、野球の初心者がいいグローブを選べないのと同じ。
勉強をしない子がいい参考書を選べないのと同じ。
経験がないと、良いものと悪いものの”違い”がすぐにピンとこない。
それは絵画でも焼き物でも同じ。
良いものがわかるためにはたくさん見る必要があり、
見れば見るほど、細かい”違い”が見えてくる。
世のおじさんたちは今の若いアイドルたちを見て、
「みんな同じ顔してんじゃない」と言ったりするが、
みんな同じ顔をしているようなアイドルでも、細かく見ていけば、
同じような顔の中にある”違い”がだんだん見えてくる。
そもそも、おじさんだって、みんな同じような顔をしている。

人間の顔に対するヒトのセンサーの鋭さは驚くべき精度で、
だいぶ遠くから女性が歩いてきていても、
その人が器量良しなのか器量悪しなのかの判断は、すぐにつく。
もし、遠くからやってくるのがヒトではなくトラだったら、まったく判断がつかないし、
遠くからやってくるのが顔を隠したヒトだったとしても、まったく判断がつかない。
目と鼻と口のついたヒトの顔だからこそ、
遠くからでも、バランスの良し悪しがすぐにわかるのだ。
それは、これまで何万と、僕らが、ヒトの顔を見てきたから。
もちろん僕らは、顔だけでなく、
ヒトの二の腕やくるぶしもこれまで何万と見てきているが、
二の腕やくるぶしには、目のよりどころとなるパーツがない。
はっきりしたパーツがないと、
なかなか細かい違いがわからない。
くるぶしだけでは、どれだけ精密に見ても、
一人ひとりを判断するのは難しいだろう。
”違い”がわかるためには、違いを生む部分がなくてはならない。

僕らが成人式を迎えていた頃、
巷では、オレオレ詐欺が流行っていたり、偽文書問題が世間を騒がせたりしていた。
だから、壇上の先生は、
「悪いやつらに騙されるなよ。ちゃんと見抜けよ」というつもりで
「違うのわかる人になれ」と言ったのだと思うけれど、
「違いがわかる」というのはなにも、
良いと悪い、本物と偽物がわかるというだけの話じゃない。
一方からみたら悪いことも”違う”見方をしたら良いことになりえるという、
多様な視点の話でもあるし、
同じに見えることでも、時間を経れば”違い”が現れるという、
判断すべきスパンの話でもある。
高校生と接していると、「違いのわかる人になれ」という先生の言葉は、
「こどもを見る眼を養え」という言葉に聞こえてくる。
”違い”がわかるということは、”違う”視点でその子を認めてやれるということ。
本人も気づいていない、”違う”価値を見出してやれるということ。

ことばというのは話してしまえば、聞き手のものになる。
先生がどういうつもりで話したにしても、
勝手にひっかかって勝手に覚えている聞き手は、勝手に解釈をする。
まわりの新成人はあまり聞いていなかったけれど、
なにかの節目に先生がする話を、
なにかの節目に先生がわざわざする話だと思って聞いていれば、
そこになんらかの意味は生まれる。
たとえ、それが先生の真意とは違っても、
意味を生もうとする聞き手は、勝手に解釈して教訓とする。