子どもが落ちるちょうどいい谷底

先日、高校生を連れてタイの高校に行くことがあった。
相手の高校は全校を挙げて日本の高校生たちを歓迎してくれ、
盛大な「歓迎式」を開いてくれたのだが、そこで、ちょっとしたハプニングが発生。
日本の高校生たちがタイの高校生用に準備していた、
プレゼンテーションのスライドが、なぜか、スクリーンに映しだされない。
パソコンは動いているのに、接続先の機械がまったく反応しない。
ホールに集まった800人のタイ人高校生たちの視線を一身に受ける壇上の生徒たちは、
英語の原稿を片手に、微妙な時間が流れる中、
ケーブルを挿しては抜き、抜いては挿している我々、大人の方を睨むように見ている。
彼女らの物言わぬ視線は、我々に強いメッセージを発している。
「は・や・く・して・くだ・さい」
こ、これは、まずい。

スライドが映らないと、用意してきたプレゼンテーションが無駄になる。
時間稼ぎのために、予定を変更して、タイの高校の発表を先に回してもらうが、
ケーブルが悪いのか、ソフトが悪いのか、パソコンにつなげた機械は全く反応しない。
ただでさえ、タイ側の生徒は日本人に対して、尋常ではない興味を持っていて、
こちらのプレゼンを、今か今かと、心待ちにしている。
「パソコン不具合のためプレゼンはできません」じゃ、示しがつかない。

全く接続されないパソコンに、「もうこれは無理だ」と観念した私は、
スライド無しで発表をさせることを一瞬考えるが、
それはどう考えても無理な話。
短時間で、スライドがないバージョンの英語原稿を作るのは、
普通の高校生にはハードルが高すぎる。
これはもう、「プランB」を考えるしかないなと思い、
会場の端に座って、友達と笑い合っている一人の男子生徒を呼んだ。
普段、私が英語を教えている、英語が一番話せる男子生徒A君。
さっきまでタイの「嗅ぎ薬」を友達と嗅がせあってバカ笑いしていた彼に、
真剣な面持ちで言う。
「A君、緊急事態だ。
パソコンの不具合で、用意していたプレゼンができなくなった。
君が代わりに、壇上に上がって、日本の学校と地元のことについて英語で話をしてくれ。
最低でも10分間」

人前で英語で話すのは緊張する。
用意している文を読むだけでも緊張するのに、即興で考えた文章を数百人の前で話す。
しかも10分も。
急にそんなことを言われた男子生徒の表情は明らかにこわばり、
みるみる緊張していくのが伝わってきた。
が、他に方法はない。
「君がやるしかないんだ」と背中を押して、話すテーマをいくつか与える。
嗅ぎ薬を握った手を震わせながらも腹を決めた生徒は、
「どのくらい時間ありますか」と聞いてくるが、
時間はないに等しい。
「3分」と、強い口調で伝える。

男子生徒と話している間にパソコンがつながっていることを期待しつつ、
ケーブルと格闘している同僚の元に戻ってみるが、変化は何もない。
ソフトの拡張子を変え、開き方を変えて試してみるが、スクリーンは何も反応しない。
タイ側が先にやってくれた発表も終わってしまった。
「仕方ない。やっぱり、”プランB”で行くしかないんだな」
と、その瞬間、予備のケーブルを持ったタイ人スタッフが部屋に入ってきた。
タイ人スタッフは急いで、そのケーブルとパソコンをつなぎ、ソフトを開く。
と、スクリーンにスライドが映しだされた。
「映ったよ!」
興奮して、タイ人スタッフと何度もハイタッチする同僚。
スクリーンを見て、ホッとした表情で、タイ人高校生たちの方に体を向ける壇上の生徒たち。
ぎりぎりで間に合った日本側のプレゼンテーションは、予定通り、
事前に準備したパワーポイントと、予定通りのメンバーで行うことができた。

スクリーンにスライドが映った瞬間、
「3分でプレゼンを考えろ」と言われた男子生徒は、自分の出番がないことを悟った。
その時の気持ちが安堵だったのか口惜しさだったのかはわからないが、
彼は、英語原稿を作るために、高速で回転させていた頭をストップさせた。
結局、彼は壇上に立たなくてよくなったわけだが、
彼が経験した3分は、実際にプレゼンした生徒の何倍にも濃い時間だったろうと想像する。
緊張し、追い込まれ、自分がやるしか方法がない状況というのは、
それだけで大きな経験である。
事前に準備したものをこなして終わるのではなく、
自分の能力以上の力を発揮しなければいけない状況に追い込まれて、
人は初めて成長する。

今回、急なトラブルで、A君を壇上に立たせようとしたのは、
彼に、それをやるだけの能力があると思ったからだけではなく、
彼が、普段、自分の能力以上のことに手を出さない子だったからでもあった。
能力の高い子は賢いために、自分で勝手に自分を判断してしまうところがある。
なにをやらせてもやることはやるのだが、
ある程度のところで、こなすようになる。
自分にとって「挑戦」になるような、
できるかできないかぎりぎりのラインには踏み込もうとはせず、できることをやる。
もしくは、できないことは、「自分にはできなくていい」と、見切りをつける。
その賢さが、彼の中に以前あったはずの「野心」をだんだんと薄めていっているのを
普段から感じていた私は、彼が落ちてもいいような、「谷底」を、ずっと探していた。
深くで足がすくむけど、かすり傷で済むくらいの、ちょうどいい谷底。

今回、彼にとってちょうどいい谷底を見つけたのに、
寸前のところで、彼を落としそびれてしまった。
しかし、今回、彼は、谷底には落ちなかったが、
谷底に落ちる覚悟を決めたことで、谷に落ちるということがどういうことかは経験できた。
その経験は、きっと次に活きるだろう。
次に彼が落ちる「谷底」は、大学時代に出会う谷底かもれないし、
プライベートで出会う谷底かもしれないが、
本気でものを考えた3分間は、次の「谷底」に向かう推進力となるはずだ。
一度落ちる覚悟ができれば、谷底がそんなに深いものではないと知る。
そうすれば、「ぎりぎり」も「自分の能力を超えること」も、恐れることはなくなる。

前のページ:誰が子どもに「正しさ」を教えるのか(下)

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