瞑想生活9「”巡恋歌”だと思ったら”純恋歌”の人だった」

ほかの参加者と一緒に生活していていても、
「一人で修行しているかのように」日々を過ごすように言われ、
「聖なる沈黙」を守りながら生活をしていた僕らも、
7日目あたりにさしかかると、いい加減、毎日のルーティーンに慣れてきて、
それまでの厳格な瞑想生活にも、意思の緩みが見え隠れするようになる。
このコースでは、禅寺のように、細かくマナーというか一つひとつの作法が教えられるわけではないが、
(禅寺では、トイレでのお尻の拭き方も決まっているという)
それまで、参加者は、自律的に、丁寧な生活を守っていた。
それが、だんだんと、いろんな場面でボロが出始め、
少しだけ、各参加者の”日常”が顔を出し始める。
ドアを足で蹴って閉めたり、
食べてはいけない時間にバナナを取ったり、
肘をついたまま、ご飯を食べたり(←俺)。

そうやって生活が緩んでくると、
これまで見えなかった参加者の外郭がだんだんと見えるようになり、
みんなの意志によって清らかに保たれていた場所が、
少しずつ、俗世に侵されていく。
「筆記は禁止」って言われたのに、こそこそノートにメモ取っている人、
誰も見ていやしないのに、ずっと前髪を気にして、いじっている人、
瞑想中に、女性の方ばっかチラチラ見ている人、
鼻をかんだティッシュペーパーを遠くから投げてゴミ箱に入れている人(←俺)。

「聖なる沈黙」の中、黙って座り、黙って食べ、黙って寝ている間は、
中学生がきちんと制服を着て、授業を受けているように、
はたから見ると、「いい子」たちにしか見えないのだが、
生活が緩み始めると、それぞれの「個」が外に漏れ出してしまう。

7日目の夜、シャワーを浴びていると、
隣のシャワー室から、ふんふんと、鼻歌が聞こえてくる。

その音に耳を澄ますと、歌っているのは、湘南乃風の「巡恋歌」だ。
隣のシャワー室に入っていった人は、
瞑想中、微動だにせず、休み時間中もずっと静かに座っていた人。
あんな深く瞑想できる人も、普段は、湘南乃風なんか聞くんだぁ。
ふぅん。
これが、長渕剛の「巡恋歌」だったら、まだよかったかもしれないのに、
湘南乃風の「純恋歌」かぁ。
そっちかぁ。
そうやって、だんだんと他の参加者の”日常”を垣間見るようになると、
真剣に瞑想に打ち込む「いい子」に見えていた参加者たちも
違った目で見えるようになる。
誰にも見られていないと思って、ダンシングマンのステップを踏んでいる外国人、
サッカー部しかやらないストレッチで体をほぐしている大学生風の男、
奥さんと一緒に来ているのか、遠くから一人の女性の散歩をじっと見つめているおじさん、
持病があるのか、歩くたびにおならをしているおじいさん。

わざわざこんなところに好き好んで来ているのだから、
皆、それぞれ、思うところがあるのだろう。
その理由や背景が、言葉を介さずとも、
ちょっとずつ生活の中に漏れ出してくると、
こちらも、
彼らのしぐさや表情から、普段の彼らの日常を想像する。
あの人は、たぶん、普段、デスクワークしている人。
あの人は、たぶん、普段から玄米食べている人。
あの人は、たぶん、奥さんに逃げられて絶望してここに来た人。
あの人は、たぶん、インドにハマった後で、田舎でオーガニック生活してる人。
あの人は・・・、
あっ。
だめだだめだ。
人のことを考えている場合ではなかった。
この10日間は一人で修行するのだ。
考えるべきは自分のこと。
感じるべきは、自分の感覚。
人のことなんてどうでもいい。
そのための「聖なる沈黙」なのだ。
昨日の夜の講話でも、テープの中の人がそんなことを言っていたな。
「目的地への行き方を教えることはできますが、
その地へ行くためには、自分で歩くしかないのです」

そう、ここでは人のことなんて、どうでもいい。
自分のことだけ考え、感じるのだ。
「アニッチャー(諸行無常)、アニッチャー(諸行無常)」のこころで。

 

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