不立文字

「不立文字」
禅では真理を文字で表すことを嫌ってきた。
ただ、真理を文字に残すのを嫌ったのは、禅僧たちだけでない。
ブッダも、キリストも、ソクラテスも、孔子も、文字を書くことをせず、本一冊、後世に残さなかった。
それでも、今の時代に彼らの思想が伝わっているのは、彼らの有り難い言葉をどうしても後世に伝えようと思った人間が周りにいたからだ。
当人たちは、日常生活の中でふいに発した言葉の数々が、2000年後の未来に残るなんて想像だにしていなかっただろう(キリストはしてたかな)が、それらの叡智を文字に残さずにいられなかった周りの人たちの気持ちは、察するに余りある。

そうした聡明な人たちが自分の言葉を文字にしたがらないのは、文字にしてしまえば、言葉が固定化し、残された言葉それ自体が、あたかも真実であるかのように錯覚されることを恐れたためである。
「うれしい」や「悲しい」など、感情を表す言葉たちが、私たちが日常で感じる感情のすべてを完璧に言い表すことができないように、言葉(文字)を使って真実を正確に表現することはできない。
禅では、それを、「一粒の砂を表すには、一粒の砂がいる」と云う。
「一粒の砂」を表すのに、「砂」という一字では、とうてい不十分なのだ。

しかし、私たちは、時に、というか、たいていの場面で、目の前にいる存在そのものよりも、言葉(文字)のほうを信じる。
目の前に人が見えていても、その人そのものを見ずに、その人の言葉、さらにいえば、その人が持っている肩書、年収、交友関係、身につけている物から判断しようとする。
それらはすべて、(記号や数字を含め)、表現された言葉(=文字)である。
例えば、「部長」は「部長」という「言葉(=情報)」であって、それ以上でもそれ以下でもない。
ただの属性の一つである。
しかし、人は、目の前の人を「部長」として見ることで、その人が持つそれ以外の要素を落としてしまう。
偉人が文字を嫌ったのは、そうした、固定された言葉の方を「ほんとう」だと思うことで、目の前の人やことを、「正しく」見れなくなる恐ろしさを知っていたからである。
「悟り」と「言葉」にすれば、「悟り」みたいなものがあると思ってしまう(が、そのようなものは「ない」)し、「鬼神」と表現すれば、「鬼神」みたいなものをビジュアライズしてしまう(が、そのようなものは「いない」)。

さらに、身近な他の例を挙げてみる。
結婚を考えている女性が、「有名企業勤務」、「年収○億円」、「タワマン在住」の男性を前にすると、目の前の男性の「性格や振る舞い」を過小評価してしまうかもしれない。
また、男性が、出会系アプリで、「若い年齢」の「見た目のよい写真」を載せている女性を見つけると、それが「サギ写(=作られたビジュアル)」であっても、簡単に「いいね」を押してしまうかもしれない。
人は「情報」を追うようになると、「情報」にだけ価値を置くようになる。
それが、その人の一側面を表すだけだということを忘れてしまう。
(ソクラテスらの時代は、「文字」に残すか残さないかが問題だったかもしれないが、今は「画像」や「映像」という、文字よりもはるかに大きな容量を伝える情報技術がある。
文字すら残さなかった彼らが、画像も映像を残すという選択肢はなかっただろう。
彼らは、固定化された情報を避けたのである)

情報はなにかを選択する際、有用であることが多いが、現実の世界で、私たちが結婚するのは、「肩書」や「年収」、「外見」や「年齢」の集合体としての「男・女」ではなく、体温や体臭を持ち、日々、食料摂取と排出を繰り返す、生身の人間である。
「情報」上は、完璧なスペックを持つ男性であっても、一緒に生活してみれば、口臭がきつく、愚痴っぽく、ナルシスト寄りのマザコンで、咀嚼音がうるさく、店員に横柄で、肝心な時に限って薄情な男だという可能性もある。
しかし、そうした性質は、「文字(=情報)」になりにくいため、情報を追っている時には、意識に登らなかったりする。
それらは、同じ空間に一緒にいて初めて「感じる」ことであり、情報として「知れる」ことではない。
情報化社会とは、そうした、「感じる」を軽んじ、「知る」の方を重く見る社会である。

そうした情報を中心とする生き方をしていては「ほんとうが見えなくなるよ」と、紀元前の哲学者・思想家たちは、警鐘を鳴らしたのだ。
「人間は、文字にすると、すぐ文字を追うようになるからなぁ・・・」と、彼らは文字を徹底的に避けた。
その警鐘は、言い換えれば、「具体で見ろ」ということである。
教科書ではなく、マニュアルではなく、目の前のものから学べということ。

また、別の表現でいえば、「理想からではなく、目の前の現実から始めろ」ということでもある。
「結婚相手に求める条件」が高くなかなか結婚できないというタイプの人がいるらしいが、自分が求めるすべての条件をクリアした人と一緒に暮らしていけるかどうかはわからない。
「条件」とは「情報」のことである。
すべての条件をクリアした「白馬の王子様」が現れたとしても、一緒に生活してみると、その王子様の白タイツの毛玉の多さが気にくわなくて、結婚生活が不安になるということだって考えられる。
「理想」で人を見ている限り、ほんとうにその人を見ていることにはならない。

情報(=文字)を追うと、人は、目の前の「人」を「情報」だと思うようになる。
それは、人を固定化してみることにつながるよ。
ってか、そもそも人間は、変化する”生き物”なんだよと、
解剖学者の養老先生はよく言っていた。

私たちは、日々、変わる。
それなのに、ブッダも、キリストも、ソクラテスも、孔子も、本の中で、ずっと同じことを言っている。
本人たちが生きていたら、「もうそんな考えしてないんだけどな」と、否定する可能性が高い。
偉人は、一瞬を切り取られて、2500年も固定化されるが、我々は、そのような心配がないのだから、大いに、毎日、変化してよいのである。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次