会話の訓練

私たちは日常会話を習ったことがない。
おしゃべりの仕方とか、雑談の仕方とか。
以前は「コミュニケーション」という言葉もなかったので、それも当然だったのだが、今では、コミュニケーション能力は社会でやっていく際に重要な能力の一つになっている。

コミュニケーション能力が大事になったのは、サービス業などが全体に占める割合が増え、人とコミュニケーションする仕事が多くなったということもあるだろうが、人とコミュニケーションを取ること自体が、以前より難しくなったということのほうが大きいだろう。
例えば、カラオケ一つ取っても、以前は、どの世代も同じように盛り上がる曲があったが、今では、それぞれがまったく違う種類の音楽を聞いているので、共通して盛り上がる曲を探すのが難しい、というか、カラオケ自体が、コミュニケーションツールとして成り立たなくなっている。
それほど、他人とコミュニケーションを取ることは難しくなった。
多様なライフスタイルが可能になる中で、それぞれの「違い」は増え、「同じ」は減ったのだ。

他の人とのコミュニケーションが難しくなると、コミュニケーションを意識的に教えるということが必要になってくる。
今では、小学生に対して、「話し方を教える」という意識が学校にあるのだという。
どういう話し方をした方が、友だちと仲良くやれるかを、道徳的な話としてではなく、話のテクニックとして教えるのだ。

例えば友だちに、「その絵、あんまり上手くないけど、頑張って書いてたね」と言うとの、「頑張って書いてたけど、その絵、あんまり上手くないね」と言うのでは、前者のほうが印象がいい。
「”褒め”は後ろに置くべし」である。
そんなことは、日常生活を送っていれば当たり前にわかりそうなことだが、それがわからない、もしくは、うまくできない子たちがいるために、それをわざわざ学校で教えるのだという。

「〇〇、けど、〇〇」
そう、文に逆説が入る場合は、後ろの方に力点が置かれるが、それは、ほとんどの人が、意識せずに普段の会話の中で知っていることである。
しかし、それを知らない人が、普段の会話で、間違った話し方をして、悪い印象を持たれているからといって、その言い方のまずさが面と向かって毎回、指摘されるわけではない。
だから、そういうことができない子は、ずっと間違いに気づかないのだろう。
そんな細かいことまで学校が指導しなければいけないのかとは思うが、人々が無意識にやっていることを、今一度、整理して確認しておくのはよいことなのかもしれない。

ただ、会話には膨大なパターンが存在する。
例えば、恋人や奥さんが美容院に行って帰ってきた際、「どう?」と聞かれて、
「新しい髪型、似合ってないけど、今日の服とは合ってるよ」と言うのと、「新しい髪型、今日の服とは合ってるけど、似合ってないよ」と言うのは、どちらがいいかというと、どちらもダメである。
学校で話し方を習った子どもは、「なんで、”褒め”を後ろにしたのに、『新しい髪型、似合ってないけど、今日の服とは合ってるよ』もダメなの?」と思う可能性があるが、ダメなものはダメである。
人が髪型を変えた時は、肯定しかしてはいけない。
語順を変えたくらいのテクニックでは、誤魔化しはきかないのである。

ことほど左様に、教科書的に会話を教えるのは難しい。
言い方の細かいテクニックでどうにかなる場合もあるが、ほとんどは、慣習に左右されるものなので、慣れの中で理解するしかない。
「習うより慣れろ」である。

そうは言うものの、実際の友だち関係や男女関係、先輩や上司との関係の中で、慣習に慣れる前に、傷ついたり、嫌な思いをすることは多々あるだろう。
そういう意味で、傷つかない、「練習」という名のコミュニケーショントレーニングを、授業中に、ドリルのように、ただ黙々と解きながら理解するのは、一部の子には助けになるのかもしれない。

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