好きのかたち

「痛バッグ」というものがある。
バッグを、好きなアニメのキャラクターグッズでデコレーションしたもので、
「痛いバッグ」という意味だ
(「痛車(痛い車)」というのもある)。
そういう、アニメなどの”二次元グッズ”を身に着けた人には、
街を歩いていれば普通に会うし、
歌手やアイドルのライブ会場の近くを通ると、
全身を”アーティストグッズ”で固めた人たちにも、多く遭遇する。
誰かの歌を好きになっても、
歌っている人のグッズを身につけたいと思ったことはあまりないので、
あまり、共感はできない。
そういう形の”好き”は、
小学生の頃使っていた原辰徳の下敷き以来、覚えがない。

僕の場合、アニメや歌手のグッズを身につけることはなくても、
誰かの言葉をグッズのように、持ち歩くことはあるのかもしれないな、
と、ふと思う。
過去の歴史上の人物が言った言葉を覚えて持ち歩くことで、
その人が残した名声やドラマに浸っていたいと思うことはある。
「これ、いい言葉だな」と思って、意識的に覚える偉人の言葉。
それを口に出すことで気分があがったり、一時的に前向きになることはある。
だが、その効力が長く続くことはない。
自分の中のブームが去ると、それらの好きだった言葉はすぐに忘れ、
違うシチュエーションで、自分を支える言葉が必要になった時に、
再び、僕を支えてくれることはない。
そういう偉人は、肝心な時に、役にたたない。
そういう”好き”は、一時的にしか効力を発揮しない。

それとは逆に、
意識的に覚えるつもりがなかったのに、ちゃんと覚えている言葉ってのがある。
自分が人と話している瞬間に、すっと入りこんでくる、どこかで読んだ言葉。
まったく別のことを考えている時に、ふと、思い出す言葉。
多分、それは、自分にピンときた言葉。
ピンときた言葉は、”持ち歩く”必要がない。
ピンときた言葉は、自分に”付属”させる必要がない。
自分の外に付属させようとするのは、どこかで、ピンときていない可能性がある。
そういう形の”好き”は、どこかに無理が生じてしまう。

どれだけ好きなアニメの世界観に浸ろうとしても、
どれだけカリスマティックな歌手の世界に住もうとしても、
完全にその世界観や人物に、同一化することはできない。
誰かの、歌が、アニメが、言葉が、メッセージとして、存在として、
自分の奥深くに突き刺さっているのだとしたら、
外側をグッズで固める必要はない。
それらが存在するという事実だけで安心できるはずだし、
常時周りを”グッズ”で固めなくても、効力は持続し続けるはずだ。
”この世に存在するってだけで最高だ”と思えるものを、僕は好きなものと呼んでいる。
小学生の頃使っていた原辰徳の下敷きを使わなくなって以来、
そういう形の”好き”しか、僕は知らない。

 

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