自己肯定

「ツイッターを見ていると自己肯定感が下がる」という記事を読んだ。
当たり前である。
人の自慢話を聞いて、自信をなくしてしまうのも、
人の主張を聞いて、うんざりしてしまうのも、当然だ。
人が何かについて主張したり、報告していたりすると、
人は、つい、自分と比べてしまう。
東はビル・ゲイツから西は美輪明宏まで、多くの変人が、
「人とは比べなさんな」と、言ってきたのに、
SNSの中には、人と比べる材料しか転がっていない。

ツイッターやインスタグラムのようなSNSも、
テレビやラジオなどの大きなメディアも、
見ている「私」が一人なのに対し、見られるコンテンツの中には何百人もいる。
SNSでは、Aさんの投稿も、Bさんのリツイートも、Cさんのコメントも見れるし、
テレビでは、Aさんのドキュメンタリーも、Bさんのお笑い番組も、Cさんの謝罪会見も見れる。
そうやって、瞬時に何人もの人生の一瞬を垣間見るということは、
色々な人の「一瞬」の寄り集まりを見ているということで、
一人の人間の「一生」を見ているのとはわけが違う。

人の「一生」には上り調子も下り調子もあるので、
もしSNSが一人の人の「一生」だけを見る仕様になっていたら、
それは私小説を読むようなもので、そこには喜びも苦しみもあるだろう。
一人の人間が長い時間をかけて味わったアップとダウンがそこにはある。
しかし、SNSやテレビには上り調子の人ばかりが登場する。
もしくは、上り調子の部分しか見えないようなつくりになっている。
そうして、いろんな人の上り調子の部分ばかり見ていると、
自己肯定感の強い人たちを前に、相対的に、見ている自分の自己肯定感は下がる。
アップばかりじゃ、息が詰まる。

それらのSNSやテレビと比べて、本というのはどこまで読んでも、一人の人が書いている。
1時間で読んでも、1ヶ月かけて読んでも、ずっと一人の著者の語りである。
ファンタジーやSFや群像劇のような、
筆者と物語の主人公が一致しないような物語であっても、
一人の筆者が最初から最後まで書いているという事実が、
一人のアップダウンを読者に追体験させてくれる。
それは、本に限らず、映画でも音楽でも同じ。
一人の人間や一つのグループが作った作品の中には、
作り手が辿った思考の経過や、葛藤、逡巡が見える。
調子のいい部分だけを寄せ集めて作ったものにはない深みがある。

SNSの画面には色んな人のツイートが流れてくるもので、
赤坂で国会議員と会食している人と、
東南アジアの島で晩飯用の貝を素潜りで採っている人と、
古文書を見つけて喜び狂っている人と、
パリでモデルのオーディション前に震えている人の話が同時に流れてくる。

でも、それらはすべて違う「人生」で、
ツイッターのフィードで流れてきた様々な「人生」を見ている「私」が、
すべての生を生きられるわけではない。
自分が生きられる人生というか時はひとつだけで、複数ではない。
そしてその選んだ(選ばされた)
一つの人生にくっついてくるたくさんのアップとダウンを、
長い時間をかけて味わうことしかできないのだ。

だから、ツイッターやインスタグラムばかり見ている高校生には、
「ツイッターは閉じてさ、本でも開きなよ」と、言いたくなるときがある。
複数の人生の断片の寄せ集めを眺めるのではなく、
一人の人生の経緯を辿れよ、と。
そこには人間の葛藤もあるし、人間以外との交流もある。
ある作家がどこかの論説で、
「どこもかしこも人間世界のはなしばかり」とつぶやいていたが、
ツイッターの中はまさに「人間世界のはなしばかり」だ。
人間の主張や感情ばかりで、人外の世界、花鳥風月はない。
そう考えると、高校生に、
「ツイッターは閉じて、本でも開け」というよりも、
「ツイッターは閉じて、山でも登ってこい」の方が適当なのかもしれない。
もしくは「ツイッターは閉じて、山に登って、山頂で本でも読んでこい」
なのかもしれない。
人間社会の部分ばかりを追ってもしょうがない。

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