迎え舌

食べ方には精神が現れる。

昨日、焼肉屋さんの前を通っていたら、一人でカウンターに座っている女性が、カルビと思わしき肉を食べようと箸を持ち上げて食べる瞬間、口を数センチ前に出し、肉を「迎え」に行った。
舌も出ていたので、ほぼ「迎え舌」である。
マナー的にはNG行為だが、通りすがりの一瞬の光景に、微笑ましい気持ちが湧いてくる。
その舌の「迎え」は、食欲の現れであり、それこそ、生き物としてのエネルギーである。
食べたい衝動の連続に次ぐ連続によって、我々はここまでしぶとく生きてきた。
カルビを迎えにいく数センチメートルの「前傾」に、犬やオオカミのそれを見る。
我々は、欲とともに生きている。

「食べ方」で思い出す話がある。
以前、知り合いの紹介で、長崎のプロテスタント学校を訪問し、そこで牧師さんとご飯を食べた。
牧師さんは豊かな暮らしをしていなかったのだろう。
当時、まったくお金を持っていないはずだった僕が、会計を払ったことを覚えている。
宗教者がお金を持っていないことは、お金を持っているよりよほど良いことだと思うので何も問題ないのだが、問題は、その牧師さんの食べ方が「貧乏くさかった」ことである。
僕は、その「貧乏臭さい姿」に幻滅してしまい、食事中、牧師さんが話す言葉がまったく頭に入ってこなくなっていた。
宗教者は、貧乏でも、粗野でも、粗食でもいいが、「貧乏くさく」だけはご飯を食べてはいけない。
貧乏臭さは、怠惰な精神の現れである。
金がなくても、食べるものが粗末でも、信仰に生きる人は、誇り高く食べてほしい。
人々が宗教者に求めているのは、そういうことである。

「誇り高く食べる」で思い出す話がある。
数年前、職場でヤクルトを飲んでいると、ふと、後ろから写真を撮られた。
「どした?」と言いたかったが、ヤクルトを飲んでいたため、言葉がでなかった。
ふと、自分の姿を省みてみると、ヤクルトのフタを前歯で開け、顎を突き出しながら顔を上に向けて、両手を使わずにヤクルトをごくごく飲みほしていた。
ははーん、これが、普通の飲み方とは違うから写真を撮ったんだな。
そう、写真を撮った人の心情を理解し、一般的に、無作法である、手を使わない飲み方に、犬やオオカミのそれを見た。
「ヤクルト最高、わんわん」である。

食べ方、飲み方には精神が現れる。

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