【第5回】「えっへん」とふんぞり返ることは許されないのです

現役の高校生と以前高校生だった人に送る、素敵な本の紹介。
表題本以外の話にふらふら寄り道、
道草食いながら、あれこれお話します。


今は、以前ほど偉い人が偉くない時代です。父親も社長も先生も総理大臣も、それだけで無条件に偉いわけではなくなりました。それを「権威の失墜」といいます。権威は失墜したのです。

東京都の都知事だからといって、政治資金で美術品を買ったり、ファーストクラスに乗ったり、公用車で湯河原に行ったりするとすぐにお叱りを受けます。どんなに偉い人でも、「えっへん」とふんぞり返ることは許されないのです(これを書いている時、都知事批判が盛んでした)。

向田さんは、ドラマを書く人なので、偉い人をちゃんと偉い人として扱う人だったと、僕は思います。どういうことかというと、誰かが「えっへん」と偉ぶったり、周りの人が「よっ、さすが社長!」と持ち上げたりしないと、ドラマというものは、生まれにくいということです。

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学校の先生は「偉い」とされているので、教壇という一段高いところから授業を行います。でも、一段高い教壇の上に立って、偉い人として振舞っている先生に対して生徒が、「でも先生、三流大学出身でしょ」と言って、一段高いところから引きずり降ろしてしまったら、そこにドラマは生まれません。生まれても、それは悲しいドラマです。

先生を偉い人として皆が接するからこそ、「先生も教壇から降りて、君たちと同じ目線で一緒に考えたい!」なんて、熱血先生のセリフが出てくるし、「俺は先生である前に一人の男だ。教師と先生の関係がなんだ!」と、教師と生徒による禁断のドラマがスタートします。

それはテレビドラマだけでなく、昔話や童話にも、同じことがいえます。童話『裸の王様』では、「王様は裸じゃないか!」と言うのは偉くない子どもで、それを言われるのは偉い王様です。偉い人に真実を言えない情けない大人たちを尻目に、純真な目を持つ子どもが、真実を言ってしまい、偉い王様が子どもに助けられるところに面白みがあるのです。
童話『シンデレラ』では、家の中で一番偉い継母にいじめられていたシンデレラが、最後は、世界で一番偉い王子様に愛されたところに、一発逆転のドラマがあります。偉い/偉くないの関係がある方が、ドラマチックな話になりやすいのです。

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もちろん僕は、偉い人がいる時代の方がよくて、今の平等になった世の中がよくないと言っているのではありません。ただ、向田さんは、本書の中で、こう言っていました。

父は、何でも自分だけ特別扱いにしないと機嫌の悪い人であった。家庭的に恵まれず、高等小学校卒の学歴で、苦学しながら保険会社の給仕に入り、年若くして支店長になって、馬鹿にされまいと肩ひじ張って生きてきたせいだと思うが、食卓も家族と一緒を嫌がり、沖縄塗りの一人用の高足膳を使っていた。

向田さんはこう記すように、娘でありながら、(いつからか)父親の弱さを知るようになっていました。偉い父であろうとする背後には、父の弱さがあることを見抜いていました。いや、あの時代、すべての家庭がそれを見抜いていたのでしょう。見抜いた上で、演じさせていたのです。それは、ある意味、「赦し(ゆるし)」です。「お父さんは、偉そうにしててもいいよ」という、家族からの赦しなのです。その代わりに、お父さんは、外でお金を稼いできたり、子ども達を叱ったり、父親としての役割を果すのですが、ここで大切なのは、家族に赦してもらった父親はまた、家族を赦すようになるということです。

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偉い人が以前ほど偉くない今の時代は、この「人を赦すこと」をもっと考えなければいけません。なぜなら、人は平等な関係であればあるほど、人を赦すのが難しいからです。今は、父親・先生・社長・知事に対して「あんたたち、偉いからって赦さないぞ!」という社会ですが、それは同時に、偉くない僕達が、「偉くないからといって赦さないぞ!」と言われる社会だということでもあります。子どもだから、生徒だから、部下だから、新人だから、病気だから、女だから、そういう理由で赦されにくくなってきているのです。そのことをどう考えればいいのでしょう。

 

–2016/06/24−
<次につづきます。>