12/13 茨木のり子「もっと強く」

詩人・茨木のり子の詩に、「もっと強く」という詩がある。

「もっと強く願っていいのだ
 わたしたちは明石の鯛がたべたいと」
「猫脊をのばしあなたは叫んでいいのだ
 今年もついに土用の鰻と会わなかったと」

もっと強く願っていいのだ。
そう、茨木のり子はうたい始め、

「わたしたちが
 もっともっと貪婪(どんらん)にならないかぎり
 なにごとも始りはしないのだ」

と、「強く願う」ことの必要性をうたう。

この詩はたしか、昭和30年代に発表されたもので、
戦争が終わり、独立も回復した日本社会が、
もっともっと変わっていってもいいはずなのに、
それを望んでいないかのような、
人々の「願い」の弱さに、茨木のり子は歯痒い思いをしたのだろうと思う。
「もっと願え」ば、世の中は変わるのに、と。

当時の日本に比べて、食糧事情をだいぶ改善した現代では、
「明石の鯛」も「土用の鰻」も、以前よりは買い求めやすくなった。
(それが、養殖/中国産だとしても・・・)
どちらかといえばものは社会に溢れるようになり、
もっともっとと、「強く願う」よりも、
「願いを抑えること」「節制すること」を、人々は要請されるようになった。
「栄養」の話よりも、「ダイエット」や「メタボ」の話。
「ブランドもの」の話よりも「断捨離」の話。
本屋さんには、「欲」を抑えるためのメソッドや自己啓発本が、ずらっと並んでいる。
今は、「鯛」が欲しい「鰻」が欲しいと「強く願う」よりも、
その願いを抑えこみ、ほどほどで満足することが美徳なのだろう。

だけど、ものがあふれるこの時代にも、茨木のり子の言葉は生きている。
「土用の鰻と会わなかったと」叫んでいいのだと言った後に彼女は、
「女がほしければ奪うのもいいのだ
 男がほしければ奪うのもいいのだ」
と、「鯛」や「鰻」を食べてきたはずなのに草食化してしまった、
この国の若者達に
うたいかける。
「もっともっと貪婪(どんらん)にならないかぎり
 なにごとも始りはしないのだ」
「もっと強く願っていいのだ」と。
「萎縮することが生活なのだと思い込んでしまう」若者達に、
人間を矮小化するなと、
昭和30年代の詩人は、うたいかける。

 

 

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