いいとこの子

以前、会員制のホテルでアルバイトしていた時に、お金持ちの家族が朝食を食べに来た。
本当のお金持ちだけが醸し出せる「余裕」を感じさせるその家族の中に、行儀のよさそうな、小学校にあがりたてくらいの男の子がいた。
家族が食事している途中、その子がフォークを落としたので、拾いにいこうとすると、母親が僕を制し、
「どうするの?取ってもらうの?」と聞いた。
男の子は、僕の顔をちらっと見て、
「自分で取るので、いいです」と小さく答え、僕は引き下がった。

僕は、それを見て、フォークを取るという、小さな一つひとつの判断も自分自身でさせることによって「自己決定力」のようなものを養っているんだなと、その家族の教育を評価した。
母親が取ってあげるのでも、スタッフに取らせるのでもなく、どうするかを自分で決める。
日常の小さなことから子どもに判断させることが大切なんだなと思い、その教育方針を、一つの良いモデルとして考えていた。

しかし、先日、そのお金持ちの男の子より何段も口の周りが汚く、行儀の悪い、2歳くらいの子どもが、ある食堂で自分のスプーンを落としたのを見かけた。
その子どもは、すぐに椅子を掴んで降り、落としたスプーンを拾いあげ、椅子をよじ登って、そのまま食事の続きを落としたスプーンでしようとして、母親に頭をはたかれていた。
それを見た瞬間、落とした食器は間髪入れず拾うのが最善であったことを思い出した。
自分で落としたものは自分で拾うべきであり、拾う前に、「自分で拾おうか、他の人に拾ってもらおうか」考える時間を挟むことは、余計なことである。
僕が良いモデルと考えていた、いいとこの子は、自己決定を迫られることで、確かに「自主性」を育てられていたのかもしれないが、フォークを落とした瞬間、彼は「それをどうするのが正解なのか」を考えていた。
つまり、そこには、母親の目があり、「したいこと」の前に、「正しいこと」があった。

通常、「自分で決める」というのは良いことのように思われるが、「自由」というものさしで測った場合、「自分で決めるより先に自分で動ける」子は、「自分で決めようとする」子よりも、よほど自由である。
「自主性」とか「自立性」とか、「教育委員会」や「育児本」の中で扱われる性質は、たいがい、頭で考えた性質である。
そこには理知の「不自由さ」がある。
考える前に動ける子が自由な子であり、その「自由さ・自在さ」のほうが、生き物としては、より高い価値を有するように思う。
「正しくても不自由な子」よりも、「正しいかどうかはわからないが自由な子」。
僕の教育モデルは、「高い背もたれ椅子の会員制ホテル」から「ペラペラの座布団椅子の食堂」に移行した。

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この記事を書いた人

はじめまして慶虫です。西日本で高校生相手に教育系のしごとをしています。 日々、考えたことを書いています。

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