かしら

近頃、「〜かしら」と言っている人をほとんど見ない。
「〜かしら」と言う表現は今では古い表現なのだろう。
地下鉄には、昔ながらのお見合い仲介会社の広告が暖房にゆらゆら揺らめいていて、
古典的に描かれた女性のイラストが「原始的かしら?」とつぶやいている。

「〜かしら」という表現は純粋な疑問を示す時に使うもので、
英語でいうところの「I wonder」である。
「wonder」は名詞でいうと「驚異」と訳されるので、
「〜かしら」は純粋な疑問であり、驚異を表わす表現だ。
その「〜かしら」が日本人の口から最近聞かれなくなった。
なぜかしら。
純粋な疑問を発することが、人々の間でNGになっているのかしら。

「なんでその車買ったの?」
そう人が言う時、それは純粋な疑問からこぼれた言葉なのだろうけれど、
その発言を聞いた人は、そこに何かしらの意図を疑う。
「なんでそんな(ぼろい、ちゃちな、安い)車買ったんだろう?」
って、この人思ってるんだわ、と。

言った本人は、「なんでその車買ったのかしら?」と、
真っ直ぐな目で、純粋な疑問として聞いていたとしても、
言われた方は、そこになんらかの疑念が挟まっているんじゃないかと考える。
純粋な疑問であったはずの「〜かしら」の単純さが、
世間では、なんだか通用しなくなっている。

「I wonder why〜(なんで〜なのかしら)」などの純粋な疑問や驚異は、
独り言に近い。
誰に宛てるでもなく、
「どうして空は青いのかしら」
「彼はいつになったら気づくのかしら」と吐かれる言葉は、
独白と相性が良い。
誰に言うでもない心の中の対話だからこそ、純粋でありえたワンダーは、
目の前に相手がいたとしても使えていた表現だったはずだ、以前は。

それは、本来は、会話が、目の前の相手にダイレクトに言葉をぶつける他にも、
宙に言葉を吐いたり、独り言としてこぼしたりと、
多様な方向へ飛んでいけたからではないかなと思う。
そしてまた、以前は、そんなに、
相手の言葉の端々まで細かく気にしていなかったからではないかと。

昭和中期のアナウンサーなんかをテレビで見ていると、
彼らの相槌が宙にふわふわ浮いていて、
まったく相手に向けた相槌でないことに驚く。
彼らは、目の前の相手にではなく、宙に向けて相槌をうつ。
会話をスムーズに流すためだけの「はあはあ」「へえへえ」。
その相槌の上に、アナウンサーのパーソナリティは微塵も乗っていない。
無駄な色のついていない、純粋な合いの手としての「はあはあ」「へえへえ」は、
相手に届かず、宙をただよっているだけ。

「なんでそんな車買ったの?」という純粋な疑問が、
嫌味や批判や疑りとして聞かれるようになったのは、
日本人が、言葉に自分自身を乗っけてしまうようになったからだろう。
あたかも、言葉がたんなるメッセージを運ぶ道具として。
もし、言葉の機能がそれだけであれば、
言葉は人めがけて飛んでいくしかない。
しかし、言葉には本来、いろんな飛び方があったはずだ。

自分の目の前にぽとりと落ちる言葉も、
場を活気づけるために放り込まれるだけの言葉も
その場にいる神様や霊に一直線に向かう言葉もあったはずで、
必ずしも目の前の人に向けて言葉が飛ぶ必要はないのに、
現代の人は、言葉を聞いた瞬間に誰かに充てられた言葉だと思って反応する。
あの一言に傷つけられた。
あの言葉の意味を説明してと。

その敏感な反応は言葉を大切にしているようでいて、
その実、「言葉は、受け手が解釈していい」という傲慢に発している。
私が傷ついたのだから、謝ってよと。

しかし、受け手が傷ついたことを考慮しなければならないのであれば、
言葉の送り手が意図したことにも思いを馳せなければならない。
さらには、どちらも意図しなかったけれど言葉が生んでしまった結果についても、
受け入れなければならない。
人は言葉を操れないのだ。

言葉に傷つくことを感受性というと聞こえはいいが、
最近は、その感受性が非常に過敏に、ナイーブにすぎる気がする。
それは多分、僕らが、言葉に自分を乗っけすぎているからでもある。
言葉は人間の乗り物ではない。
乗ってもどこへも連れて行ってくれない。

ただ、それは決して、
自分が言った言葉に責任を持たなくてもよいということではない。
むしろ、人が言葉を作れないという事実を受け止めること。
言葉は原子であり、構造でもあるとすれば、
人が言葉をコントロールできるわけではないし、
コントロールしようとしても狙い通り届くわけでもない。

特に、この国はむかしむかしからの「うたの国」。
言葉を意味ではなくうたとして受け止めてきた。
「このうたはどんなうた”かしら”」
「このうたの中の花は私のこと”かしら”」と。
宙にただよううたを拾って吟味し、言葉の幅を広げてきた日本人には、
誰かに充てられたと思える言葉でさえ、
言葉に潜む意味がすべてではない。
SNS上の多くのつぶやきを適当に放っておくように、
目の前の人の発言も、逐一取り上げずに、
うたのようなものとして、放っておいてほしい。