ものをそのままみる

「美」について考え抜いた思想家の柳宗悦は、
「ものをそのまま見ろ」と言った。
茶室の中にある道具を見る時も、道端に落ちている道具を見る時も、
自分の嗜好や世間的な評価も脇に置き、
それを誰が作ったのかも考えずに、
そのものを、そのまままっすぐに見ろ、と。

しかし、それは言うは易し、実践は難しで、
どうしても、自分の好みや経験に基づいた判断が入ってくる。
著名な作家が、権威が、なんぼのもんやと思いつつも、
世の中で賞賛されているもの、歴史的に評価されているものから
解き放たれた眼で見ることができない。
画家の岡本太郎も、子どものような目で描けと言っていたが、
子どもじゃなくなった大人が、子どもの目を取り戻すのは簡単ではない。

柳宗悦が「美」を見いだした茶道のことを、
有閑マダムが暇つぶしにやる趣味みたいなものだと思っている人は多い。
現状、茶会に参加している客の9割5分は女性で、
そのうちの8割くらいは「マダム」以上の年齢なので、その通りかもしれないが、
マダムたちがそういった現状を喜んでいるのかといえばそうでもない。
マダム達は、若い男性がお茶をすることを喜ぶし、
なにより、お茶が本来男のものだということを重々承知している。

現在のように茶道に女性が参加するようになったのは明治以降のことで、
それまで茶会には、ほぼ男性しかいなかった。
明治維新後、茶道が封建的なものの一つとして廃れ、
学校教育で女性に作法を教えるツールとして茶道が用いられるまで、
女性は、お茶の世界にはあまり関わってこなかった。

お茶の世界の中でマジョリティを占めながらも、
頂点に男性を有する家元制度というピラミッド構造の中でお茶を学んでいるマダム達は、
どうしても権威や格といった色眼鏡を通して、色々なものを見てしまう。
(それは、マダムに限らず、男もだけど)

お茶道具を見る時も、道具そのものよりも「箱書き」を重要視する。
箱書きとは、道具が偽物でないことや、価値があることを示すために、
権威ある人が道具をしまう箱にサインすること。
そういったお墨付きの道具には結構な値がついて重宝され、
お墨がついていない道具は、軽く見られてしまう。
ものそのものよりも、ものが入っている箱に目が行ってしまう態度は、
柳宗悦が、茶人や道具屋にたいして辛辣に批判していたことだが、
ものを見る眼があるはずの茶人や道具屋ができていないのだから、
マダム達ができていないのも、仕方がないのだろう。

ものにたいして、そのまままっすぐに見ることができない眼は、
時に、人に対しても、そのまままっすぐ見ることを邪魔してしまう。

家元を頂点として、教える/教えられるの関係にあるお茶の世界は、
長い時間の中で「格」を生み出し、上下を固定化させてきた。
その格や上下関係が、本来ただの「役割」であり、便宜的なものであったはずなのに、
長い時間の中で、人は、その上下を「本質」だと思い込み、
茶人たちは、道具だけでなく、
人を「そのまままっすぐに見る」目をも、失ってしまった。

ただ、ごくたまに、お茶をやっている人の中でも、
まっすぐに人を見ている人と出会う。
「この人、僕をまっすぐ見てくるなあ」
威圧的でなく、媚びるでもなく、気を遣うでも、無関心でもないまなざし。
人を客観的に見るところがまったくなく、
判断され、評価されている感じがしない。
かといって、興味も持たれていないような感じもしない。
茶道を大成した千利休は、茶室に飾る花について、
「花は野にあるように」といったが、
その人は、野に咲く花のように、こちらをみていた。
僕を「そこに在るように」見て、まっすぐに接してきた。

その人も年齢でいえばマダムで、家元制度の中で「お茶」を習ってきた人なのだが、
周りのアンチエイジングに勤しんでいるマダムとは雰囲気が違うし、
エイジングとの戦いに破れてしまったマダムとも、全然違った。
年を取ることも、ぜんぶ、まるっと受け入れる。
ものや人をそのままに見て、
自分のことも「そう在るように」受け止めるマダム。
こういう人なら、柳宗悦も批判しなかっただろうな。
こういう人を「茶人」っていうのかなと思った次第です。