わからないやつにはわからない

子どもに教える立場にいるわりに、「子どもが変わる可能性」を信じないところがあるのは、我ながら教育する人間としてどうかと思う。
以前、ある歌舞伎役者が、「言ってわかるやつは言わなくてもわかるんだ」と言っているのを聞いて、「本当にそうだ」と同意した覚えがある。
「言ってわかるやつには言わなくてもわかる」というのは、「わからないやつには言ってもわからない」ということだ。
「わかるやつにはわかるし、わからないやつはわからない」
それは、教えられる側からすると、否定であり、あまりに非情な言葉だが、それが「教育的でないか」といわれると、そうでもない。

「わからないやつにはわからない」というのは、「お前は、(自分が)わかることをやれ」ということでもある。
「わからないこと」をずっとやっていてもわかるようにはならないんだから、「(言われなくても)わかるような道」に進みなよ、と。

歌舞伎のような特殊な世界の話なら、「わからないやつにはわからない」という、一見、子どもの可能性を否定してしまうような厳しい言葉が飛びかっても、皆、納得するだろう。
「梨園は、特殊で厳しい世界だから、仕方ないよね」と。
しかし、一般社会では、あまりそうした否定的な発言は歓迎されない。
学校で、先生が生徒に「わかるやつにはわかるし、わからないやつはわからない」と言えば「教育の放棄」と見なされるし、職場で上司が部下に「わからないやつにはなにをいっても無駄」と言えば、「パワハラ」に当たるのかもしれない。

ただ、歌舞伎に限らず、一般社会であっても、仕事には「向き不向き」というものがある。
誰に教わったわけでもないのに、なぜかできてしまう仕事もあるし、何度怒られても、思うようにできない仕事もある。
その「向き不向き」を見極めることは難しく、リクルート界隈で、「あなたに合った仕事を探します」という類の謳い文句は、止むことがない。
ただ、まだこれといった仕事マッチングサービスが出てきていないところを見ると、多分、人を「向いている仕事」に就かせるというのは、ものすごく難しいのだろう。

膨大なビッグデータや最新のAIを駆使して、その人に「向いている仕事」を提案しても、人にはそれぞれ「やりたい仕事」がある。
そして、たいていの場合、人は、「向いている仕事」よりも、「やりたい仕事」を優先する。
その中で、無理矢理、その人を「向いている仕事」に就かせるには、「わからないやつには何を言ってもわからないんだ(=向いてない人はいくら頑張ってもできない仕事がある)」ということを自覚させ、「やりたい仕事」を諦めさせる必要がある。
しかし、それは、人材紹介会社の職分を超えている。

前述のように、「お前に言ってもわからないよ」という言葉は、歌舞伎のような特殊な環境下では言ってもいいことになっているのだが、それは、歌舞伎界が狭い世界であり、子ども達に対する稽古(教育)が、歌舞伎界全体の将来を左右するからだ。
自分たちの存続がかかっている教育に、容赦はない。
限られたリソースを、将来モノになりそうもない人に費やすような余裕もない。

そう考えてみると、一般的な学校教育には、なんの存亡もかかっていないということがわかる。
ある中学校での教育が、どこかの業界の未来を左右するということはない。
「学校は社会全体への責任を負っている」といっても、「学校」も「社会」も母体が大きすぎて、責任の所在が明確にならない。
そのため、小学校が中学校に、中学校が高校に、高校が大学や専門学校に子どもを先送りして、多くの「言われてもわからない(=ものになりそうもない)大人」が生みだされたとしても、誰も責任が取れない。

そうした「先送り」をせず、どこかのタイミングで、「わからないやつにはなにを言ってもわからない(=お前には向いてないよ)」と伝えることが、「教育の責任」である。
そして、その子に、「向いていない(=言ってもわからない)」と言うだけでなく、「向いている(=言われなくてもわかる)こと」を指し示してあげることが、大人の役割であろう。

そこで重要なことは、「お前には言ってもわからない」と子どもを突き放せるのは、子どもとの間に信頼関係のある大人だけということである。
子どもも、明らかに自分より深く歌舞伎のことを知っている師匠に突き放されるからこそ、納得できるのだ。
それが、社会も世界も世間もよく知らない、子どものことすらわかっていないような大人に、「お前には言ってもわからない」と、能力を見限られても、子どもは納得しないだろう。
それはただの「呪いの言葉」である。

今の教育の問題の一つは、大人が子どもとの間に、将来の可能性を否定されうる言葉をぶつけても平気なくらい強い関係を築けていないことにある。
親以外の大人が、子どもの将来や可能性に、本気で口出しできないことは問題である。
親と子だけが狭いユニットとして、子どもの将来を考えていると、たいていその決定は、盲目的、主観的なものになる。
子どもから一定の距離を取り、客観的に見れる大人からしか、「お前には言ってもわからない」「お前には言わなくてもわかる」という言葉は出てこない。
子どもが「なにに向いていて」「なにに向いていないか」を、親とは違った距離感で見てあげる大人が、子どもには必要である。