エーリッヒ・ケストナー『飛ぶ教室』

「言葉」を「人」に合わせていく時代

「義を見てせざるは勇なきなり」。
悪いことと知っているのに行動しないのは、臆病者のすることである。もしくは、悪いことと知ったら、勇気を出して行動し正すべきである、という意味の言葉だが、最近はめったに耳にすることがなくなった。
今、子どもに対して、「義を見てせざるは勇なきなり」と教えて、どのくらいの子どもが、その言葉に同意するだろうか。「行動することが必ずしも勇気だとは思わない」と反論するかもしれないし、「そもそも勇気なんかなくていい」と言うかもしれない。
それは、取りも直さず、大人が子どもに対して「義を見てせざるは勇なきなり」と教えていないということだろうが、今の時代、大人も、なかなか、正面切って、子どもに「義」や「勇気」を説くのは難しい。

それは「勇」や「義」が、現代の徳目ではなくなったからだ。状況やケースによらず、いかなる場合でも正しく、守るべきこととして子どもたちに教えるものが徳(目)であり、それは時代時代によって変化していくものだが、現代において、「義」や「勇気」は、徳として子どもたちに教えられてはいない。
では、「義」や「勇気」に代わって、何が、現代の徳として子どもたちに教えられているのだろうか。「正直であること」、「他人を尊敬すること」、それとも、「自分を律すること」や「世の中のことを知ろうとすること」だろうか。

どれも立派な徳として子どもに説く人もいるだろう。しかし、いざ、子どもがなにか具体的な場面や問題に直面した時には、普段から説いていた徳を大人が引っ込めて、普段とは違うことを諭すこともあるように思える。
口で言うことと、実際に具体的なケースに直面した時に行動すべきことは違う。そのことは、経験を積んだ大人にはあることかもしれないが、徳(目)とは、どういう場面であっても、常に守るべきもの、通すべき性質のことであり、状況によって、守るべきだったり、そうでなかったりするものではない。ケース・バイ・ケースで変わるものは、徳とは呼ばれない。

そう考えれば、「義」や「勇気」などの徳目が今の時代に合っていないのではなく、徳自体を、子どもに説くのが難しくなってきているのが現代なのかもしれない。それは、また、言葉を大切にすることが難しくなってきていることを意味する。
徳とは、「勇気」や「正直さ」や「正義」などの「概念」であり、「言葉」である。言葉は変わることがない。昨日も今日も明日も、「勇気」は「勇気」である。しかし、人は、昨日食べたかったものが、明日には食べたくなくなるように、心も体も、日々、変化している。

常に変わっている「人」が、いつでも変わらない「言葉」を大事にするということは、「人」が「言葉」に合わせる努力をするということだ。自分や自分を取り巻く状況が変わり、以前言った言葉が実情に沿わなくなっても、やせ我慢して、自分を言葉に合わせていく。
それが言葉を大切にするということで、状況が変わったとしても、「勇気」や「義」を説き続けるなら、「人が言葉に合わせる」ということが前提がなければならない。

しかし、今は、たいていの場合、人ではなく、言葉が変更を余儀なくされる。
例えばそれは、「待ち合わせ」の場面にも現れていて、今では、待ち合わせの直前になって、時間や場所が変わるようになった。12時に待ち合わせをしていた人が、直前に、「やっぱり13時に変更」と言えるのは、スマートフォンが一般に普及したせいもあるが、それよりも、「約束」の価値が下がったことにある。
以前に交わした約束(言葉)が、状況の変化によって、無効にされる。それは、みんなが「人が言葉に合わせるよりも、言葉を人に合わせていけばいい」と考えるようになったからだ。

人は、変化する流れの中で、楽な方、易き方へと、フラフラ流れる。
クラゲのように当てどなく漂っている人に対し、流れを示し、方向づけしていくのが、時間がたっても変わることのない「言葉」であり、「理念」であり、「徳」なのだ。

「勉強しよう」と思い立ったとしても、次の日には、すぐに面倒くさくなってしまうのが人間で、その、常に変わってしまう人を制御するのが、言葉。昨日言った「勉強する」という言葉を、気持ちは前日と変わったとしても、昨日自分が吐いた言葉として守っていく。そうやって、常に変わる気持ちや状況を、変わらない言葉で制御することで、人は自分自身を制御していく。

だから、言葉を重視せず、ケース・バイ・ケースで言葉や約束を変えてしまう社会では、徳が説かれない。言葉よりも自分の気持ちや自分の感情が優先される社会では、状況次第で、「勇気」も「正直さ」も「勤勉さ」も、価値のないものに成り下がる。
ケース・バイ・ケースで変わるようなものを、人は、徳として説くことができない。