カルシウム味②

(つづき)
世界が常に変動する可能性を持っていてほしいと考えるのは、
子どもからすると、大人はなんでも良く知っていて、
世界が変動しない限り、子どもがどれだけ大きくなり、物知りになっても、
大人に勝つことがなさそうだからだ。
例えば、小学3年生の社会の時間に、担任だった女性の先生は、
社会の資料集に「環境問題」として載っていた、どこかの国の渋滞写真を指さして、
「これは日産、これはトヨタ、これはホンダ」と、
渋滞で停まっている車がどのメーカーの車かを、ひとつずつ言っていった。
僕は、その知識に驚愕した。
写真を見ただけで車のメーカーがわかるなんて、
なんて大人というのは物を知っているんだ、と。
(しかも、自分が大人になっても、メーカーも車種もまったくわからない)

学校だけでなく、家に帰っても大人というのは物知りで、
腹ペコの僕がなにか食べたいと、
卵以外何も入っていない冷蔵庫を開けては閉めてを繰り返していると、
祖母が、「卵焼きか、目玉焼きか、ゆで卵でもしてやろうか」と言った。
当時、まだ自分で料理もできなかった僕は、
「たまご」を見ただけで数種類の料理が思いつく大人の物知りさに驚いた。
大人ってなんでも知ってんな!

ただ、大人になって思うのは、
大人が物知りなのは、経験則や経験知によるものがほとんどだということだ。
どの車が「日産」で、どの車が「トヨタ」かわかるのも、
「たまご」を使えばどんな料理ができるか知っているのも、
それまでの生活の中で見聞きしした経験があるからだ。
その点では大人に一日の長があり、子どもが大人に太刀打ちすることはできない。
ただ、子どもとして、大人の知識量に驚いていた時、
同時に感じていたのは、その大人の「疑いのなさ」だった。

「たまご」と聞いた時に、大人が思い浮かべるのが
「卵焼き」「目玉焼き」「ゆで卵」だということは、
「たまご」は「混ぜて焼く」か、「そのまま焼く」か、「茹でる」かしか
考えていないということだった。
(厳密には「生で食べる」とか「蒸す」とか「撹拌する」とか他にも知っていただろうけど)
大人は、なぜ、自分が知っている方法がすべてのような顔をしているのだろうか。
だって、調理法ってのはもっと他にたくさんあるはずで、
大人が知っている方法がすべてではない。
車のメーカーを言い当てた先生だって、
日本の主要メーカー以外にも車メーカーは世界にたくさんあるはずなのに、
なぜ、自分が知っている範囲だけですべてというか、
その3社で大事なところはほぼ押さえられてますから、みたいな顔をするんだろうと思った。
(今、振り返って言葉にすればだけど)。

それはもちろん、経験則からくる当然の推量で、
たまごの調理方法として、他に「たまごを凍らせる」とか
「寒天に溶かす」なんかがあったとしても、
そんなことをしてもおいしくないわけで、
自分が見聞きした、数種類のたまごの調理法だけを知っていれば、
日常生活では事が足りるのだ。
しかし、圧倒的に経験が足りない子どもからしてみれば、
すべてを知っているわけでないのに知ったような顔をしている大人が気に食わない。

だから、中学生の頃、元素の周期表を見た時は、一人でほくそ笑んでいた。
「水素」「ヘリウム」「リチウム」「ベリリウム」で始まる周期表は、
最初の、第一周期から第六周期くらいまでは完全なリストになっているが、
第七周期になると、ところどころ元素が「歯抜け」になっていて、
この世に、まだ見つかっていない元素があることがわかった。
メンデレーエフが元素周期を考え出した19世紀の時点では、
たぶん、第2周期にも、第3周期にも「歯抜け」はたくさんあって、
世界はまだまだ完成されてないなあと、子どもにも感じることができたと思う。
それが20世紀後半にもなると、「歯抜け」はほとんどなくなっていた。
それでもポツポツ「歯抜け」がある周期表は、
まだ世界は完成されていなくて、余白がありますよと言っているようで、安心した。
物知りの大人にもまだ見つけられてていないことがあり、
世界はまだ変動しているのだ。

それは、冥王星が太陽系の惑星から除外された時に感じた気持ちにも似ていた。
それまで「水金地火木土天海冥」の9つが「惑星」だと学校で教えられてきたのに、
突如、冥王星が、準惑星に降格させられ、「惑星」は8つになった。
これまで教えられたことは「嘘(間違い)」だったんだ!
それまで教えられていた「惑星」という枠組みは、
人間(大人)が恣意的に引いた線に過ぎなくて、
線の引き方によって、枠組みというのは常に変動するものだということを、その時知った。
なんだ、大人の物知り顔ってのは、
「とりあえず」組んだ枠組みの上でだけ成り立つ顔なんだなと、了解した。
コペルニクス的転回が起こり得る可能性は、いつの時代もあるのだと。
(つづく)