コミュニティ

LINEやFacebookでグループをたくさん作るようになって、
色んなコミュニティに参加することが当たり前の時代になったけれど、
この世に生まれて、初めて入ったコミュニティは、
たぶん、家族というコミュニティだと思う。
入ったというより、気付いたら入っていたわけだけど。

『アメリカの民主主義』で有名なフランスの政治学者トクヴィルは、
特定の目的を持ち、人為的に設立された組織を、
昔ながらの共同体と分けて考え、
前者を「アソシエーション」、後者を「コミュニティ」と呼んだ。
トクヴィルが呼んだコミュニティに、
家族が入っていたかどうか忘れたけれど、
家族を含むコミュニティは、自然発生的に始まるので、
「目的」や「ルール」をわざわざ言葉にしようとはしない。
「お風呂からあがる時は、家中に響く大きな声で報告する」とか、
「日曜日の夜は必ず、お父さんが作ったカレーをみんなで食べる」とか、
そういうことは、なんとなくコミュニティ内で決まっていくのであって、
コミュニティ内のメンバー同士が話し合いの席で、
「ルール」として決めていったものではない。

十年ほど前売れた、お笑い芸人の本『ホームレス中学生』の中で、
主人公の父親は、家を追い出された家族を近くの公園に集め、
「解散!」と、一家の終わりを宣言するのだけど、
普通の家庭には、こういった、家族の明確な始まりや終わりはない。
コミュニティには、
「始まり」も「終わり」も「ルール」も「目的」も、
言葉にされないまま、なんとく浮かびあがり、なんとなく消えていく。

「コミュニティ」がなにごとも言葉にしないのは、
「コミュニティ」にとって大切なのは、「ルール」や「目的地」ではなく
「メンバー」だからだ。
集団の目的や意義が先にあって集まったわけでなく、
まず、そこに、メンバーがいたことで、集団ができた。
というか、自然に集団になった。
まず、”いる”ということが大事な「コミュニティ」では、
「ルール」や「目的」を言葉にする必要がない。
それらは「なんとなく」できあがればいい。
ただ、コミュニティで一番大切な”メンバー”は常に変わっていく。
出たり、入ったり、
増えたり、減ったり。

そうやって”メンバー”が変わっていく中で、
言葉になっていない「ルール」や「目的」を
「なんとなく」で上から下に伝えていく。
「イエ制度」の残り香がまだ残っていた昭和の最初くらいまで、
それは「家風」として、習慣や人付き合いに残されていたのかもしれないが、
「家風」なんてものが消えてしまった現代、
なにが、その、コミュニティの「なんとなく」を伝えていくのだろうか。