ビリ

日本の総理大臣が新しくなった。
それに伴い発足した新内閣の支持率は、軒並み高いらしい。
みんな、何かが変わることを期待しているのだろう。
ただ、「新内閣総理大臣」は「旧内閣官房長官」なので、
なにかが変わることはないかもしれない。
(本人も前政権を踏襲していくと言っている)

何かが変わらないだろうことは、
総理になってすぐに会食を共にしたと言われる人たちの顔ぶれからもわかる。
その中には、前政権どころか2000年代の小泉政権から政治の中枢に関わっている
経済学者も含まれていた。
令和以降も、平成の経済政策を踏襲していくつもりなのだろうか。

その経済学者は「新自由主義経済」論者の筆頭と言われてきた。
「新自由主義経済」とは、経済をなるべく市場原理に任せ、
政府による規制を取り払おうようとする経済で、
「平等」よりも「自由」を重要視する。
ここ、2,30年の日本で格差が広がったのは、弱肉強食の自由競争に任せ、
「上」と「下」が広がりを見逃してきた「行き過ぎた自由主義」が原因とも言われる。

「新自由主義経済」の話を聞いていると、私は、ある芸術家の顔を思い浮かべる。
その人は経済とはまったく関係のない話の中で、
「ビリがいるから、他の人はビリをまぬがれているんだ」と、
ビリの存在のありがたさを滔々と話していた。
「”ビリ”に感謝しろよ」というその人の話を、
「新自由主義者」たちは理解できるかなと、考えてみる。
「新自由主義」を推奨する人たちは、「競争」がフェアであれば、
それによる結果もまたフェアなものであると考えるので、
「ビリ」は、自分の能力・努力不足の結果としての「ビリ」を甘んじて受け入れるべきだし、
それを逆から言うと、
「トップ」は、自分の脳力・努力の結果として「トップ」になれたのだから、
甘んじてその恩恵を受けてしかるべきと言うだろう。

もしかしたら「新自由主義者」でなくても、
多くの日本人がそう考えているかもしれないが、
「ビリがいるから、他の人はビリをまぬがれている」と考える人は、
それとは違う見方をする。
「競争」がフェアであっても、
「競争」を行えば、必ず、「トップ」と「ビリ」が生じる。
「ビリ」というのは「存在」のことで、100人で競争すれば100人目が「ビリ」だし、
その100人目がいなくなれば、99人目が繰り下がりで「ビリ」になる。
人間はせせこましいもので、87人目だろうが、93人目だろうが、
自分よりも「下」の人を見て安堵する。
あぁ、自分よりも「下」がいるんだと。
その「下」の「下」を、ビリは引き受けている。
たとえ、「ビリ」が本心ではなりたくてなった結果でないとしても、
「ビリ」の存在は、「ビリ」以外に安堵を与えている。
だから「ビリ(という存在)に他の人は感謝すべき」と、その芸術家は言うのだ。

「なんでビリに感謝しなきゃいけないんだ」
そう、自由主義経済論者は言うだろう。
それは、彼らが経済を全体から捉える立場に立ちながら、
プレイヤーの視点しか持てないからではなないかと思う。
例えば、小さな子どもが真剣にやっているトランプに大人が参加したら、
大人は、わざと負けて「ビリ」になってあげる。
遊びの「ビリ」などなんとも思わない大人は、
自分が「ビリ」になることで、子どもに優越感を感じさせる。
「神」の視点で子どもの競争を見ることができる大人たちは、
例え、「徒競走」や「パン食い競走」で子どもが「ビリ」になっても、
それが大したことじゃないことと諭すし、
尺度やルールを変えればすぐに、「ビリ」は「ビリ」でなくなることを教える。
「あのね、大きくなったら、足が速くたって、誰も褒めてくれないんだよ」と。

大人の「経済競争」は子どもの「競争」とは違い、生存がかかっている。
一つの「ルール変更」で飯が食えなくなることもあるし、
一つの「規制緩和」で業界自体がなくなることもある。
(今日も「ハンコ廃止」に関するニュースで、
「ハンコがなくなったら大変なことになりますよ!」と、ハンコ屋さんが激怒していた)
だから、大人たちは、「競争」にマジになる。
マジだから、「下」に下がることを恐れ、「上」に行きたいと思う。
そうしてみんなの関心が、自分の上がり下がりだけにしか向かなくなると、
自然と「競争」は加熱し、「上」と「下」の格差は広がり始める。

そんな大人の世界でも、大人の競争を子どもの競争のように見れる人はいて、
例えば、時の権力者から官位を授けられても、
粗末な暮らしを続けるような高僧は、
人間の世界に「上」とか「下」がないということを知っている。
(でも「涅槃」に至る過程にいる人間には、たくさんの階層が設けられている)
そして、ボロボロの布を着て、侘しい飯を食って生きることで、
社会の中での「ビリ」を引き受けている。
托鉢という、経済的に圧倒的な「ビリ」に甘んじることで、
他の人に安堵感を与え、お布施という徳を積む機会を与える。

そんなだから、存在として「ビリ」をやっている人には感謝しなよという
その芸術家の意見に、私は賛成する。
だから、そういう経済政策を掲げている政党があれば応援しようと思うが、
そんな政党は、なかなか見当たらない。
どの政党も、「競争」させようとするか、
「競争」を是正させようとすることしか頭にない。
ただ、ここで言っているのは、「競争」の結果に対する心持ちの話である。
生存している以上、競争の側面はあるのだから、
競争があり、競争の結果の「上下」が生まれるのは仕方ないとして、
その上で、「ビリがいるおかげで、他の人がビリをまぬがれている」という
その気持ちを持とうといっているし、
そういう政治家はいないのかなと言っているのだ。
しかし、そんな政治家はどこにもいないし、
もしいたとしたら、その政治家は声高らかに
「ビリの人は、他の人を幸せにしているのです!」と言うだろう。
そんなことはひっそりと心に思うことで、マイクを通して言うことではない。
芸術家が世界の隅で、ひっそりつぶやいているくらいがちょうどいいのかもしれない。