ユニークネス

アメリカは成功者を褒める社会である。
トップに上り詰めた成功者は、
その果実を社会に還元してくれると信じられているし、
それが社会貢献や恩返しだと成功者自身も思っているので、
トップまでの登り方については、あまり問われない。

個人を崇めるアメリカ人は
叩き上げを讃え、アメリカンドリームに拍手する。
個人を称賛して
スターを生産する文化は、
少数の英雄を生み出すが、
ゼロから叩き上げでトップまで登るつめる人の数は少ない。
ほとんどの「ゼロからスタートしました組」は、
スポットを浴びる前に脱落してしまう。
残念だけど。

アメリカと比べると日本は、
あまり個人を称賛しない。
その代わり、脱落しそうな個人を、集団が助けたりする。
肩代わりしてくれたり見逃してくれたり尻拭いしてくれたり。
個人があげたように見える業績も個人に帰すことはしないが、
一人でトップまで登りつめることなんて夢でしかない、
ほとんどの凡人たちにとっては有り難い仕組み。

日本人の均質さや集団性は、基本的に、
「俺ら、みんなそれぞれ似たり寄ったりだよな」という考えからきている。
優れている劣っているとしても、どんぐりの背比べの範囲内。
だれもが一長あれば一短もある。
そう思えば、他人とは、自分と同じドングリ野郎のこと。
だから、ドングリ野郎同士、助け合う。

個人主義の世界は、「自分は人とは違う」と言いたがるし、
集団主義の世界は、「人と自分と同じようなもんだ」と言いたがる。
日本の就職面接で、どれだけエントリーシートなどに
「自分はいかに人と違うか」を企業が書かせたとしても、
実際に面接官が見ているのは、その人が、
「どれだけ人と同じであれるか」だったりする。

アメリカのオンライン靴会社のザッポスの面接では、
「how unique(どれだけユニークか?)」と問われるらしいが、
自分がどれほどユニークなのか、自分の口から言わなければならないなんて、
日本社会で育った人たちにしたら、拷問でしかない。

本当にユニークな人は、
人と比べて自分がどれほどユニークかなんてことは考えない。
自分がやりたいこと、興味あることを追いかけているだけ。
人は本来、皆DNAレベルで違っているので、
人と違った存在なのは、自明のこと。
それを言葉で説明しろ、というのは難しい。

言葉というのは、本来一人ひとり違う存在である者同士が、共通理解するためのものなので、
言葉を使えば使うほど、頭を使えば使うほど、
人はお互いを理解しあうことができ、
個々のユニークさ(独自さ)は減っていく。
お互いがユニークであればあるほど、共感はできなくなっていくのだから。

例えばさっきした僕のおならは、
音も匂いも風圧も昨日した僕のおならとは違うが、
「今日のおならは”プー”」
「昨日のおならは”ブリッ”」と、言葉にすれば、
そこにある違いは、「プー」と「ブリッ」くらいでしかない。
おならのユニークネスとは、「言葉」の側ではなく、
五感を通して感じる「感覚」の側にこそある。

だから、ユニークな存在になるためには、
他人を見て、他人と自分の何が違っているのかを「言葉」にするのではなく、
自分の中にある、言葉にならない感覚や戸惑いやつまづきや違和感をそのままに、
自分の中を掘って掘って掘っていくしかない。
そうやって掘った後の自分がどうユニークになったのかは、
周りの人が、後で、言葉にすればいい。
そんなことをしていると、
ザッポスの面接に受かることはまずないんだけれど。

日本の社会において、
「自分がいかにユニークか」を語ることがなじまないのは、
この国では、周りの人が言う「あの人の性質」が、
当人が言う「自分の性質」よりも、よほど当たっているからだ。
そして、当人がどう自分のことを語ろうが、
周りの人が感じる「あの人」こそが、そのまま、「あの人」なんだと、
皆が思っているからだろう。