人の言うことを聞く

「大人の言うことなんて聞きたくない」
「自分の思うようにしたい」と思うのは、子どもなら誰もが思っていることで、
先生の言うことや親の言うことを聞いて、
その通りにすることが「負け」でもあるかのように思うのが、思春期というものだ。

その反発自体は正常な成長で、
聞き分けの良すぎる子や親の言いなりになっている子よりも
よほどまっすぐ歩いているとは思うが、
大人の一人として、中高生が言うことを聞いてくれないことは、時に歯がゆい思いをする。
仕方のないことだと思いながらも、歯がゆい。
ギリギリ。

先日も、クラスメイトと諍いを起こしたある子(A子)に相談された際、
その子の日常の行動や考え方を鑑みた上で、
謝った方がA子のためにもいいんじゃないかと、謝罪を促したのだが、
A子は返事をしたようなしないような態度で口をとがらるだけで、
クラスメイトに謝ることも、歩み寄ることもしようとしなかった。

それが、数週間たったある日、A子とそのクラスメイトが仲良く歩いていたので、
なぜ仲が戻っているのか、なにがあったのかと思い、他の子に聞くと、
A子がクラスメイトに謝り、仲直りしたのだという。
僕と話した時には謝る気配はなかったのに、
なにかきっかけがあったのかなと思い、A子に尋ねてみると、
仲の良い男の子(B君)から「謝った方がいい」と言われ、謝ったのだという。
僕の言うことは聞かなかったのに、B君の言うことなら聞くんですね・・・。

大人の言うことは聞かないが、友達の言うことは聞く。
それは、もしかすると言われたタイミングが違ったというだけかもしれないし、
何人かに同じアドバイスをされた末に、
最後の一押しとしてBの助言があっただけかもしれないが、
なににせよ、A子は、B君の助言によって、「よし、謝ろう」と思ったのだ。
結果的に謝罪して、事態が好転したのであれば、だれの影響だろうがいいのだが、
事態を好転させるためには、なにを話すかの内容ではなく、
誰と話させるか、人を考えた方がよっぽどうまく事は進むのだなと、再認識した。

A子は僕の言うことを聞かなかったわけだけれど
(結果的には謝っているので、「言うことを聞いている」のかもしれないが)
「誰かの言うことを聞けない」ということは、
その人の言葉を「論理」としてしか受け止められないということだ。
「論理は人を黙らせるが人を動かさない」という成句というか決め言葉が示すとおり、
人が動くのは、論理を理解した時ではなくて、その言葉を「納得」した時だ。
頭で論理や意味を分かったとしても、
そのことが腹に落ちて、納得しなければ人は行動には移さない。
僕の発する言葉は、A子に理解はさせても、納得はさせなかったのだ。

それを別の表現で、「分かることは変わることだ」と言ったのは、
解剖学者の養老先生だったように思うけど、
その養老先生は、違う著書で、
「何かを決める時には、決める内容よりもどう決めるかの方が大事だ」
ということを言っていた。

自分のことなのに、「他人の言うことを聞い」ていると、
主体性がなく、「他人任せ」にしているようにも見える。
自分の人生を占い師にまかせて振り回されている人などを見ると、
見てて、悲しい気分にさせられる。
自分の人生くらい自分で決めてもいいのに、と。

しかし、選択肢が複数あり、決定を迫られた場合、
どれが正しい選択肢でどれが間違った選択肢なのかを見着分けるのは、難しい。
なぜなら、何が正しくて何が間違っているかは、
見方や見るスパンによって違ってくるし、
間違った選択が後の成功を呼んだり、
間違った決定から多くのことを学ぶこともあるからだ。
「正しい」と「間違い」の間に明確な線はない。

だから、考えるべきは、「なにが正しい決断か」ではなく、
「どういう決め方が一番納得できる決め方か」である。
それが、人間にとってあまり有益でない、
「後悔」というものを産まない方法でもある。

納得できる決め方は、「自分がそう信じるから」でもいいし、
あの人に言われたからとか、本にこういう記述があったからとか、
コインが「裏」だったからとか、死んだじいちゃんが望んでたからだとか、
いろんな方法がある。
この決め方で決めたのなら仕方がないと思えるかどうかは、
個々人によって違い、
どんな方法であれ、納得できる方法で決断したと思えば、
その後、どう転んでも、過ぎ去った判断を悔いたりはしない。

それはドーナツ屋で、
ポン・デ・リングにするかオールドファッションにするかという小さな決断から、
人生の節目に転職するか会社に残るべきかという大きなことまで、
なにかを決定する時には等しく言えること。
ポン・デ・リングもオールドファッションも両方食べたいと思っているのに、
どちらか一つを自分で決めようとしても、大概は間違った方を選んでしまうのだから、
自分で決めずに、誰かに選択を委ねた方がいい場合もある。
それは、自分中での正解が
「ポン・デ・リング」か「オールドファッション」だと思っていても、
本当の正解が「どっちも食べる」だったり
「そもそも、ミスタードーナツではなく、クリスピー・クリーム」だったりするからで、
自分の意識が並べた選択肢がすべてではないこともあるのだから、
主体性を持って自分で決めるということは、絶対視しない方がいい。

意識というのは、常に「主人公」であろうとするので、
自分が決定者であることを優先させようとする。
「自分が自分が」と前に出てきて、
「運」や「偶然」や「感覚」や「自然」のような、
あまり声高に叫ぶことをしない、
「論理で語りきれない部分たち」を隅に押しやろうとする。
しかし、行動を起こすためには、「納得」が必要で、
「納得」とは、体全体でするものなのだ。
体の一部分である頭しか動かせない「論理」は一要素でしかないし、
一つ一つの判断を「意識(主体性)」だけに求めるのは危うい。

クラスメイトとトラブルを起こし、仲直りしたA子は、
頭では僕の言うことを「もっとも」だと思いつつも、
納得し、行動するには至らなかった。
でも、A子は、自分の感覚に耳を傾けることのできる子だったので、
(というか、子どもは大抵できる子なので)
自分が処理しきれない「論理」を、
誰が「納得」の段階まで持っていってくれるのかを知っていた。
A子は、「どう決めるべきか」、決定の仕方を自分で理解していたわけではないが、
自分に必要なのは「納得」であり、
それをもたらすのがB君だと感じることはできた。
その時、A子にとって、言葉上「正しいこと」だけを言う僕は、
童話『北風と太陽』でいうところの「北風」であり、
B君が「太陽」だったのだ。
太陽になれるよう、頑張ろう。