憧れ

  

「奥田民生になりたいボーイと出会う男すべてを狂わせるガール」
というマンガがあって、このほど映画化された。
以前、原作のマンガを薦められて読んだのだが、
「奥田民生になりたいボーイ」と「出会う男すべてを狂わせるガール」が恋愛する以前に、
「奥田民生になりたい」という感覚に共感できずに、
しょっぱなからついていけなかった。
「奥田民生になりたい」ってどういうことなんだろうか。

おととい、カフェで隣の席に座った男が、連れ立った女に、
「自分は木梨憲武のような大人になりたくて、
木梨憲武がデザインしているキャップを最近買った」という話をしていた。

憧れの人がいて、その人のイメージを自分に重ねるために、
同じようなアイテムを身につけるのは、
誰しもが仮面ライダーベルトやセーラームーンスティックから始めて、
大人になっても、有名人が広告塔を務めるブランドや化粧品を欲しがるなど、
ずっと続いていることなのだが、
やはり、それは、どこまでいっても、子供っぽい発想だと思う。
仮面ライダーになりたいと思っても、なれないことを大人は知っている。
なれると思っているのは、違いに気づけない子どもだけだ。
それと同じように、誰であっても、奥田民生や木梨憲武にはなれない。
それに気づけないのは、「憧れる」ということを履き違えている子どもだからだ。

誰かに憧れるというのは、その人の”眼”を持つということだ。
その人のものの見方や、その人の考え方を、自分で考えてみることだ。
格好やファッションだけを真似してもどうにもならない。
ステージ上で歌っているアーティストを見て憧れを抱いたとしても、
ステージ上で歌っている人は、ステージを見ているわけではない。
彼らは、客席を見ている。
客席を見ている人の気持ちを理解するには、
自分も客席にあがるしかない。
ステージを向いて、格好を真似しても、当人に近づける距離は短い。

数年前、居酒屋で飲んでいた時、やたらと「〇〇に似てる」と、
有名人に顔が似ていることを言ってくる女性がいた。
その子は、そう言うことで人を褒めているつもりなのだが、
誰かと顔が似ていることはなにかを「褒めた」ことにはならない。
顔のパーツやバランスが誰かと近いことが、なんだっていうんだ。
イチローとイチローのそっくりさんに何の関係もないように、
他人と顔が似ていることは、特段、取り上げることでもない。

人は、ひとりひとり、違い、
”個人”として、すでに完成している。
有名人と顔が似ているから株が上がるわけでも、
成功者と好きなものが似ているから上等な人間になるわけでもない。

人を商品のように、他人と比較して見ることしかできないと、
「A子はB子の上位互換」や「BはCの下位互換」みたいな、
ネット上に溢れる、気味の悪い表現しか出てこなくなる。
人は”互換”されるものではない。
置き換えられないところに、価値があるのだ。
だから大人になっても、まだ「〇〇さんになりたい」と言っている人には、
「馬鹿か」と言ってやるべきだと思う。
自分から他人に置き換えられに行ってどうする。

マンガの原作終盤で、「奥田民生になりたいボーイ」は、
奥田民生とはかけ離れた姿の大人になってしまう。
それが、作者の結論。
自分は「奥田民生になれない」と気付いてからが、スタート。
誰かになりたいと思っている間は、誰にもなれないという話なのだ。