文系と理系

教育において、「文系」と「理系」に分けるのはよくないと言われる。
「文型」と「理系」という区分を強調するのは日本くらいで、「理系」にも「文系」の要素があるし、「文系」にも「理系」的な考え方が当然あるのだから、ことさら2つの間に線を引く必要はないという主張である。
それはもっともだと思う。

ただ、子ども達の中には、明らかに自分を「理系」だ「文系」だと思っている子たちがいて、その子たちがそう感じる確かな理由もある。
「理系的」な考えや「文系的」な考えの両方を理解できる子は、なにも自分を「文系」だとか「理系」だとかに分ける必要はないため、自身を「文系」や「理系」で規定したがる子は、どちらかの教科が理解できない子である。

自分を「理系的な脳みそ」だと言いたがる子は、たいがい「国語」が理解できない。
理由を聞くと、多くが、「国語は論理的ではない」からだという。
「でもさ、国語にも英語にも論理はあるよね」と返してみるが、彼らは納得しないし、そう言う僕も、心の中では「その気持、わかるよ」と頷いている。
言語にも数学と同じような、論理的なルールはあるが、もちろん、その論理の厚さは、数学や理科系の学問にはかなわない。
言語は、曖昧さを残す。

例えば、「鮭は卵を生む」という文章があるとする。
なにもおかしなところがないように思える文だが、「すべての鮭が卵を生むわけではない」という事実を考えると、おかしな文だ。
オスは産まないし、メスでも成長しないと産まないし、成長して故郷の川に帰ってこれなかったメスも卵を産まない。
実際には全体の〇〇%しか産まないのに、「鮭は卵を生む」と、さも、すべての鮭が卵を生むかのような文になっている。
これは「総称文」と呼ばれる。
「総称文」では、例外があっても、その例外を人は無視して考える。
それとは異なり、「すべての鮭は卵を生む」と、「量化する表現(=すべての)」を含む文は、「全称文」と呼ばれる。
「総称文」と「全称文」は言語学的には違うが、日常的な会話の中では意識されない。
こういうところに、言語の曖昧さがある。

そのような曖昧さは数学にもあるかもしれないが、数学を教科として習う際に、その曖昧さが残っていることはない。
日常生活の中で、個人商店やお祭りで買い物をする際に、820円の商品を買おうと1000円を出したら、200円のお釣りが帰ってきた。
そういうことはありえるかもしれないが、数学の授業において、「1000-830=200」になることは、まずない。
学問の基本的な原理原則を教える授業においては、曖昧さを残すべきではない。
そう、「理系の子」は思うのだろう。

また、言語は「ルール」よりも「慣習」を優先させる。
例えば、「問題が”生じる”」とは言うが「問題が”湧く”」とは言わない。
逆に、「自信は”湧く”」と表現することはあっても、「自信が”生じる”」と言うことはあまりない。

それらはただの「慣習」なので、特に、厳密な「ルール」に基づいているわけではない。
なので、国語のテストや「日本語検定」を受ける学生たちは、「ルール」ではなく「慣習」を覚えなければならない。
また、国語の文章問題などで出てくる、登場人物の心情を把握する問題などでは、一般的な人間の「心の慣習」を知っておかなければならない。

例えば、人は、一般的にやましい気持ちがある場合、人の目をまっすぐ見ることができない。
浮気している人は妻の目を見れないし、万引きした子どもは親の目をまっすぐに見れない。
そうした一般的な習性から、国語のテストでそのような行動を取る人物が出てきた場合は、「やましい気持ちがあるに違いない」と推測しなければいけない。

しかし、それは、生き物の「ルール」ではなく、「慣習」や「一般性」なので、例外もありえる。
そこに、「問題の解き方」としての切れ味の悪さがある。
「やましい気持ちがあっても、人の目をまっすぐ見れる人もいるんじゃないですか」
「理系的な子」は、そういう反論をする。
先生は、「そんなサイコパスみたいな人なら、文章の他の部分で、もっとサイコパスらしい行動が描かれているはずです。人の葬式でニヤつくとか、二宮金次郎像に怒鳴るとか・・・」と、説明するだろう。
しかし、その、何ら「法則性」に基づかない、ただの人間界の「慣習」としての説明に、「理系の子」は納得がいかない。
「いや、でも、やましいことがあるからこそ、人の目を見ることだってあるだろ・・・」。

入試問題として取り上げられる小説の原作者が、入試問題にまったく答えられないということはよくある話で、登場人物の心情を把握するという「国語」の問題が、一面的な見方から作られた問題であることは明らかである。
そんな、狭く、一面的な見方にもとづいた「Q&A」をどれほど真剣に勉強しなければいけないかは、正直わからない。
しかし、だからといって、「国語」のような文系科目を「理系的な子」が学ばなくていいとも思わない。

子どもは、理系の「論理に基づいた考え方」も、文系の「慣習を考慮に入れる考え方」も両方、しっかり学ぶべきである。
「論理に基づいた考え方」をおろそかにすると、「竹槍で爆撃機に対抗しよう」という非論理的な発想に疑問を持たなくなるし、「慣習を考慮に入れる考え方」をおろそかにすると、「自分に最適な職業をAIに決めてもらおう」という非人間的な発想に疑問を持たなくなる。
純粋思考としての「論理」も理解しなきゃいけないし、人間界には「例外」や「慣習」があることも理解しなければいけない。
「理系的な子」も「国語」をやり、「文系的な子」も「数学」をやるのだ。
それは、「世間には、自分とは違う、いろいろな人間がいるんだな」と気づくために小学校に行くのと同じで、自分の苦手な考え方を知ることで、「この世にはいろいろな考え方があるんだな」と知ることができる。
「世界にはいろいろなものがあるな」と世界を広げさせることが「知的教育」である。
ただ、それをいつまで、どの程度やるべきなのかはまた別の話である。