新聞大国

新聞を読まなくなってずいぶん経つ。
ほとんどの家庭に当たり前のように新聞が届き、
当たり前のように毎日、大人たちが新聞に目を通していた光景は、
インターネットが普及するようになると、
急速に、生活の中から消えていった。
インターネットでニュースが配信され始めた初期の頃から、
近い将来、新聞はなくなると多くの人が警告していたが、
これまでのところ、警告通りに事態は進んでいるようだ。
15年前くらい前に壇上で、
「インターネットニュースの配信元も、新聞社だから、あんまり痛手はないんだよね」
と、インターネットニュースの勃興を楽観視していた大手新聞社のお偉いさんのことをふと、
思い出す。

新聞は大方の予想通り、今後も発行部数を減らしていくのだろうが、
そもそも日本人は、新聞をこれまで読みすぎてきた。
世界と比較しても日本人は新聞を取りすぎで、
世界の新聞発行部数ランキングを見ると、
まず、1位が読売新聞で1000万部弱、
そのあと、2位に朝日新聞、3位に毎日新聞がつけ、
巨大な人口を擁するインドと中国の新聞を挟んで、
7位に再び、日本の日経新聞がランクインしている。
日本は、他国からしてみると、圧倒的に新聞大国なのだ。
世界的な知名度においては、世界の1,2位を争うであろう
ウォール・ストリート・ジャーナルが12位、
イギリスで最も読まれている大衆紙のザ・サンが14位に甘んじているのに、
日本は、スポーツ新聞のスポニチでさえ、あの、ニューヨーク・タイムズと張り合えるのだ。
日本人、新聞、好きすぎ。

なぜかくも日本人が新聞を好んで読んできたのかは色々な理由があるだろうが、
これだけの人が毎日、飽きることなく新聞を読んできたおかげで、
日本にいる人達は、長い間、同じ情報に触れ、同じような見解を持つことができた。
そのことは、日本の「常識」を形成する上で、大いに役に立った。
日本の新聞は、海外ほど階級や党派性が強くないので、
読売新聞であっても朝日新聞であっても、
特定の政治案件を除けば、似たような論調を紙面で展開する。
朝、朝食をたべながら新聞に目を通す日本の大人たちは、
それが何新聞であっても、世の中で起こっている出来事を同じように知り、
その出来事に対する、同じような、意見・考え方を共有してきた。
「今、一番ホットな話題とは新聞の一面に載っているできごとだ」
そう思う新聞購読者たちが日本に数千万人いたことは、
日本人の常識を形成する上では、ずいぶん楽だったはずだ。

そして、今、多くの家庭が新聞を取らなくなり、
(それでも世界に比べると、先のランキングの通りダントツなんだけど)
スマートフォンでニュースを見るようになったことで、
これまで新聞が担っていた
「大人なら知っていて当たり前の出来事とその見解」を、大人たちが共有できなくなった。
それぞれが違うニュースを見て、違う社会の出来事を世の中の重要な出来事だと思うことは、
皆が思う「当たり前」が、違ってきたということだ。
インターネットニュースにも、大多数の人が目にするサイトはあるが、
ネットニュースは、どちらかといえば新聞よりもテレビのワイドショーに近く、
ショッキングなニュースや話題のゴシップに関しては、多くの人に共有されるが、
少し真面目な、経済、地域、文化、社会のニュースに関しては、
意識的に見ようとしない限り、見出しさえ目に触れないような作りになっている。
特に、ニュースをアプリで読むようになってからは、
表示されるニュース記事が優秀なアルゴリズムによってカスタマイズされているため、
より、個人的な興味に沿った、特定分野の記事だけが目に入るようになった。

そうやって、毎日目にするニュースが個々人で違ってくると、
自分が当たり前だと思う「常識」が、社会で通じなくなってくる。
そして、それが問題なのは、そのことで私たちは、
とても高いコストを払わなくてはいけなくなるということだ。
これまで、日本人の間で通じてきた「当たり前」や、
言葉を介さずともツーカーでやってこれた「言わずもがな」のことを、
全部、言葉にして確認していかなくてはいけないことは、
非常に手間であり、リスクを背負うことでもある。

そのことが一番わかりやすく出るのは治安に関することで、
「ランドセルを背負った小学生が学校から一人で歩いて帰ることは、なんの問題もない」
という常識が地域で共有されなくなると、
親は、子どもを毎日送り迎えしなくてはならなくなるし、
道で小学生とすれ違う大人は変な人に思われないように緊張しなければいけなくなる。
家庭と社会の間に緊張が走ると、どちらも予防線を張るようになり、
社会の中から、どんどん、皆が安心できる場所がなくなっていく。
「常識が通じる社会」というのは、「予測が立てやすい社会」ということで、
そうでない社会では、心理的にも金銭的にも、無駄なコストがかかる。

これまで「常識」形成に一役買っていた新聞がさらに読まれなくなるということは、
私たち日本人の「常識」を、
誰が、どうやって作っていくかという問題が発生したということでもある。
さらにいうと、その問題は、「常識」を共有する”私たち”とは、
いったい、誰と誰と誰のことを指して、誰と誰のことを指さないのかという問題でもある。
マンションの隣に住む人の素性すら知らないような現代では、
誰が、信頼できる「私たち」で、誰が、信頼できない「あの人たち」なのかを、
自分で考え、判断しなければいけない。
そうした、他人との関係を自分で構築していかなければいけない現代は、
安定的に生活を営んでいくという点において難しい時代だろうが、
ほどんどの大人がなにも考えずに新聞を定期購読していた時代は、
世の中で起こった出来事が、新聞社によって、
重要な出来事と重要でない出来事に分けられていた時代でもあるのだ。
その作業を個々人でするようになったという意味では、
望ましい変化ともいえなくもない。

ただ、「常識」を形成するという点において難しい時代なのは、間違いなく、
今後、個々人が捌く情報量が増え、
人間関係を構築する負担が増えることも間違いない。
そのことは、これから更に、
新聞の発行部数が減少していくのと同じくらい間違いなさそうなことなので、
自分で考え判斷することを負担と思わず、自分が裁量をもっていると思うしか、
面倒くささを取り除く方法はないのかもしれない。