日の丸

平成31年1月。
平成最後のお正月が過ぎていった。
今年の5月で年号が変わることがすでに決定していた今年の年末年始、
どこのまちでも、行事やイベントの中には、「平成最後の」という形容詞が溢れていた。
一般参賀には、今生天皇が天皇としてお迎えされる最後の年とあってか、
多くの国民が集まり、天皇陛下らは、予定よりも一回多く、
集まった国民の前に姿を見せられたらしい。

今上天皇が上皇になられることで生じた、
今年の「天皇誕生日」は祝日のままなのか平日になるのかという問題は
とりあえず「平日」とすることに決まったらしく、
そうなると、新天皇の誕生日が2月23日ということもあって、
2019年は、「天皇誕生日」という祝日がなくなることになるのだという。

「天皇誕生日」にしろ「勤労感謝の日」にしろ、
以前は、国民の祝日には、各家庭の軒先には国旗が掲揚されていた。
しかし、最近は、めっきり見る機会がなくなった。
まだ、日の丸を掲げている家もちらほらあるにはあるが、
以前に比べると少なく、
特に、若い世帯の家やマンションのベランダではまず見かけない。

以前は祝日に国旗を掲げていた人たちが、
だんだんと、祝日がやってきても、「もう別に出さんでもいいか」
と思うようになったということは、
なにか彼らに変化があったということで、
その原因の一つは、
「隣の家が出さんようになったから」という集団的観点からだと思うが、
別の原因としては、
国旗を掲げるということを当たり前の慣習だと思う世代が高齢化し、
若い世代にとって、国旗を掲げるという行為自体が特別なことになり、
国旗の掲揚が何か、
ナショナリスティックなメッセージを発しているように思われはしないだろうかと
勘ぐるようになったからだろう。
オリンピックやワールドカップでは、
当たり前のように皆が振っている日の丸を、
休日に軒先に掲げると違う意味になる恐れがあるというのは、
どういうことだろう。

国旗掲揚や国歌斉唱がセンシティブな問題になるのは、
社会の中で、ナショナリズムに関する意識が高まっている時だ。
この正月に台湾は、
中国の国家主席・習近平から「統一」を迫られたが、
その台湾で、今、軒先に台湾国旗を掲げることは、
「台湾と中国は別の国だ」という明確な意思を示すことを意味する。
逆に、アメリカで行われるメジャーリーグの試合前に、
アメリカ国歌を大きな声で歌うことは、
ごく当たり前の風景すぎて、特別、何かの意志表明にはならない。

ただ、どんな時期であっても、
旗を掲げること自体は、人を清々しい気分にさせる。
箱根駅伝の沿道の人が、贔屓の大学の旗を振ったり、
戦国時代に自軍の軍旗を背中に挿して相手に向かっていったり、
旗を掲げることは、自らのアイデンティティを示すことであり、
そこには、集団と自分が一致した高揚感がある。

旗を掲げることは、
「私はこの旗に示された集団の一メンバーですよ」と表明する行為であり、
運動会で紅組の旗を振れば、それは、
「私は紅組の一メンバーですよ」と言うことだし、
庭先に国旗を掲げれば、それは、
「私は日本国の一メンバーですよ」と表明することになる。
それは「事実」なので、特に変に思うこともないのだが、
アメリカのように、国家の理念のもとに人々が集まった国や、
ヨーロッパのように、意識的に市民が国家を成立させてきた国々と比べると、
日本人は、国家に対する距離のとり方がよくわかっていないところがあり、
国旗に対する扱い方もわかっていないところがある。
過去に変に国旗に近づきすぎたりしたせいなのか、
今は、無駄に離れ過ぎたりしている。

ただ、祝日に日の丸を掲げなくなった原因は、
意思を決定する単位がイエから個人になったということにもあるだろう。
つまり、おじいちゃんやお父さんの言うことをみんなが聞かなくなったから、だ。
以前は、家長が国旗を掲げると決めれば、
それがそのまま、その家の意思だったかもしれないが、
今は、家族の中のメンバーそれぞれが、違う意思を持っている。
お父さんが一般参賀に並ぶような人であっても、
お母さんがオーガニック食品の信奉者で、
息子が熱狂的なサッカークラブのサポーターで、娘が、アイドルの追っかけならば、
その家が掲げる旗は日の丸である必要がない。
家長が明らかな時代ならば、家族がなにを言っても
「おい、祝日だぞ。日の丸を出せ」の一言で話は済んだかもしれないが、
今は、日の丸とオーガニック食品の旗とサッカークラブの旗とアイドルの旗が同列の時代。
すべてを庭先に掲げるには、旗が多すぎる。

掲げる旗が多すぎるのは、
所属しているコミュニティーが多すぎるからでもあって、
今は、たくさんのコミュニティに同時に所属することで、
自分を成り立たせている部分があるので、旗が多くなるのは仕方ないし、
そのコミュニティのうちの一つが、
日本国家(というか国家が運営しているシステム下の社会)ということなので、
軒先に日の丸を掲げることに、そこまで意味を探る必要はないと思う。

もし、日の丸を軒先に掲げることで、
ナショナリスティックに思われるのではないかという不安があるのであれば、
日の丸と同時にLGBTの旗を掲げるとか、
日の丸をムーミンの置物にもたせるとか、
ナショナルなものをなにか別の世界観で中和すればいいと思う。
私は、「国」だけでなく「別の集団の平和と繁栄」も願っているんですよ、と。
人が同時に、多くのコミュニティに加入し始めたように、
人は、自分の安全と、家族の加護と、国の平安と、世界の平和を、
ついでにいうと、サッカークラブの繁栄やアイドルの成功をも同時に望むようになった。
それが人間なのであるから、
スタジアムではサッカークラブの旗を掲げていいし、
祝日には、日の丸を掲げても問題はないと、個人的には思う。