有事と平時

先日、まったく話が噛み合わない人にあった。
その時話していたのは、教育の話だったが、
なんでこんなに話が噛み合わないのかなぁと考えてみると、
こちらが「有事」のことを考えているのに、
相手が「平時」を想定して話しているからだった。
前提が違うと、話も噛み合わない。
話の前提として当たり前に「有事」を想定している僕がいる一方で、
当然のように、「平時」を基本にものごとを考える人がいる。
そこにはなんらかの違いがあるのだろうが、
「有事」を想定する癖のある自分からすると、
「平時」を基本に考えることはどういうことだろうと考える。
生きているうちに「死」をあまり考えないのと同じで、
重要なことでも無視できるものは無視しようと思うのだろうか。

先月の末に、川崎の子どもたちに起こった悲惨な事件と、
そのすぐ後に、自分の息子を刺殺した元農水事務次官の事件は、
どちらも長期の「引きこもり」が問題とされたが、
引きこもるということは、当人たちにとっての「有事」だ。
長期間引きこもっている人にしてみたら、
それはもう「平時」とも言えるかもしれないが、
引きこもり始めた頃は、当人もその親も、「有事」だと感じただろう。

普通に人生を歩いていた人が、何かのきっかけで躓いて、
家から出られなくなる。
それまで、学校や会社に行くことが普通だった人たちにとって、
それはとんでもない「有事」で、予想だにしない出来事。
しかし、予想だにしないことが起きるのが人生であり、
見通しのたたない時代と言われている現代では、
思ってもみないことに遭遇する可能性が、十分にある。
そんな、先の見えない時代とか、答えのない時代などと言われている時に、
子どもに関わる大人が、「平時」を基本に考えて、よいものだろうか。

しかしながら、「有事」とはたまにしか訪れないから「有事」なのであり、
ほとんどの時期は、「平時」である。
また、社会の中で、「有事」の渦中にいる人の割合は、
「平時」の中で生きている人の割合に比べたら、微々たるものだ。
だから、「平時」を基本として考えることは、効率的に悪いことではない。

ただ、「平時」の裏にはつねに「有事」がくっついていて、
それをわかった上で「平時」をやるのと、そうでないのでは大きく違う。
倒産するリスクを考えずに会社を経営する社長はいないし、
死ぬ可能性を頭に入れずに、人の体にメスを入れる医者もいない。
可能性の一番極端なケースとして「有事」があり、
責任ある立場にいる人たちは、
その「万が一」を頭に入れつつ、「有事」に備える。

教育において「有事」を基本に考えるということは、
子どもが、平坦で安全な道路の上を歩くことを前提にするのではなく、
ボコボコした、道ともいえないような道を歩くことを前提とすることだ。
その上で、落とし穴に落ちたり、石に躓いたりしたとしても、
自力で起き上がれるだけの知恵と気力を授けておくということだ。

引きこもりも、うつ病も、拒食症も、いじめも、リストカットも、
当人にとってはすべて「有事」だが、
テレビや新聞や、会社のオフィスや学校のクラスでは、
「有事」が話題になることはほとんどない。
「有事」は常にマイナーな出来事で、
日常(=平時)にいる人たちは、「有事」を相手にしない。
だから「有事」に陥った時、
当事者は、ほとんど自力でそこから脱出することになる。
周りに十分な理解とサポートがないことを前提に、
誰に助けを求め、どうやって「有事」を切り抜けるかを
パニックに陥らずに、考えなければならない。
戦争や災害など、社会全体が「有事」に陥っている場合なら
みんなで「有事」を切り抜けることもできるが、
子どもがこれから陥る「有事」は、そのほとんどが「個人的な有事」だ。
「個人的な有事」に、世間はかまってくれない。
だからこそ、子どもに携わる者は、彼らが陥る「万が一」の「有事」を想定して、
「有事」の際に必要なことを、基本として教えておくべきだと思うのだけどな。