煽る報道

「あおり運転」がニュースになっている。

相手の運転が気に食わないからといって、
不必要にクラクションを鳴らして後ろから煽ったり、
わざとゆっくり走って進路を妨害したり、
高速道路で車から降りて恫喝してきたり、
相手の運転者を車から引きずり出して殴ったり、エアガンで撃ったり、
煽り方は色々だが、どうにも厄介な人たちだなと思う。

それらのあおり運転は、車にドライブレコーダーが搭載されたり、
スマートフォンで映像を撮れるようになったことで明るみに出た事件だ。

証拠としての映像や写真が残るようになり、
全国ニュースで取り上げられるようになったことで、
「煽り運転は止めましょう」という啓蒙になることは間違いない。
けれど、頻繁に全国ニュースやネットニュースで取り上げる様子を見ていると、
ちょっと取り上げすぎなんじゃないかと思う。

何度も何度もニュースで煽り運転を流すことで、
それを見た人たちは、煽り運転に注意したり対処法を学んだりするのと同時に、
他の車を恐れるようになる。
実際、煽り運転のニュースが流れたことで、
後ろを走っている車を疑いの目で見ることが増えた。
なんか後ろの車近いな。
もしかして、俺、煽られてる!?

そうやって他人を常識のない人、自分に危害を加えてくる怖い人として見ることは、
私と他の人との間に太い線を引くことになる。
あの車は危ないやつかもしれない、
あいつはやばいやつかもしれないという初期の心理設定は、
この世を敵だらけとみなすようになり、社会を住みづらくする。
安全な場所というのが、自分と家族と友達とのまわりだけにあって、
それ以外は、自分とは相容れない、理解し得ない外敵が住むエリアなんだと考えると、
常に、安全を確保するために労力を強いられる。

それはアメリカなどのゲーテッドコミュニティ(ゲートで仕切られた地域)の考え方で、
ゲートの内側は安全、その外側は基本的に危険と考えるようになると、
社会は猜疑心であふれかえる。
そして、安全や安心を確保するために払わなければいけないコストは、
莫大なものなる。
今、日本の小学生が一人でランドセル背負って学校から帰ることができるのも、
年寄りが一人で暮らしていられるのも、
中高生が自転車で夏休みに知らない街に冒険にでかけることができるのもすべて、
彼らが不用意に変なところに近づいたり、一部の変な人に狙われない限り安全だから、
というより、安全だと皆が思っているからだ。

その基本的な皆の同意に揺さぶりをかけ、
世の中の多くの人達は自分とは通じ合えない人たちなんだ、
ちょっと油断すれば自分に危害を加えようとしてくる人たちなんだと考えるようになると、
人は、守りに入り、自分と他人との間に強固なゲートを設置するきっかけになる。

事実、アメリカでは、家から学校まで子どもを安全に送り届けるのは親の責任で、
自家用車やスクールバスを使って登下校する生徒が大半であり、
公共のバスや徒歩で、自己責任の元、学校に通う子はまれだ。
小学生くらいの子どもが外で遊ぶ場合も、
友達の家の前や監視の行き届いた公園で遊ぶくらいで、
日本の小学生のように、商店街の裏通りや、草がぼうぼうに生えた空き地みたいな、
呼び名がないような場所で遊んでいる子はいない。
(日本でもそういう場所がだいぶ少なくなってきたけど)

言うなれば、アメリカ人は、基本的に外の世界というのは真っ暗で、
その暗闇の中に、家や学校、教会や映画館などポツリポツリと明るい安全な場所がある
と考えていて、その間を、安全な自家用車で行き来すべきだと思っている。
対して日本は、基本的に世間の目がある外の世界は明るい、安全な場所だと思っていて、
その中に、ポツリポツリと危険な場所、近づくと危ない場所があると考えている。

だから、日本では、子どもは通学圏内くらいであれば勝手に遊びに行ったり
自転車ででかけても問題ないとされているし、
電車で小学校に通うような都会の子どもであっても、
子どもを見る大人の目がある限り、安全は担保されると考えられている。
例外的に、子どもに対する通り魔事件やいたずら行為があると、
大人は一時的に危険を感じ、子どもを保護し、厳しい監視下に置くが、
犯人が逮捕されるなど、危険性が去ると、
また、いつもどおり安全で安心なコミュニティに戻っていく。

しかし、あおり運転の過剰な報道は、その前提に揺さぶりをかける。
あたかもあおり運転をする人がわらわら社会にいるような報道の仕方は、
「世の中には変な人もいる」という考え方ではなく、
「世の中は変な人ばかりいる」という気持ちにさせる。

例えるなら、カナダのトロントやオーストラリアのシドニーで
関係者から「話しかけてくる人には気をつけてください」と言われ、警戒するレベルから、
インドのニューデリーやモロッコの首都で
「話しかけてくる人には気をつけてください」と言われて警戒するくらいの
レベルの跳ね上がりを感じる。
トロントやシドニーでは、公園や美術館で、
地元の人から「挨拶」として話しかけられる可能性もあるだろうが、
ニューデリーやモロッコの首都の公園や美術館で話しかけてくる人は、
まずもって「たくらみ」や「裏」がある人だと考えて間違いない。
そのくらいの危機意識の変化を、
あおり運転のニュース報道が煽ってきているように思うが、
それは僕だけだろうか。

もちろん、日本の世間も以前からすると安全度がだいぶ下がっており、
マンションの隣に住んでいる人の素性がわからなかったり、
近所であいさつをし合わない関係にあえてなっていたり、
「自分の身は自分で守る」という感覚が強くなっているのは間違いない。
しかし、それは、それぞれのコミュニティ個別の問題であり、
全国ニュースや新聞のような報道機関が、
他人への猜疑心を無駄に助長させるのは、得策ではない。
人が世間を猜疑心いっぱいの目で見るようになっても、
得をする人は、ほとんどいない。

あおり運転のニュースで報道されているような、
相手の運転に腹を立てて、車から降りてきてパンチを食らわせたり、
刑事映画のマネごとのように、他人の車をエアガンで撃つような人たちは、
少数の、特殊で厄介な人たちでしかない。
ほとんどの人は、マナーの範疇で運転しているのだ。
あまり、特殊例に引きずられないようにしたい。