目と耳と口

 

自分の声をボイスレコーダーで聞いた。
変な声。
自分の声がいつも聞こえているように聞こえなくて変な気分になるのは、
皆が子どもの時に経験することだけど、
大人になっても、その違和感はなかなか変わらない。
考えてみると、子どもの時に
「あれ、僕、こんな声なの!?」と驚いてから、
そんなにしょっちゅう自分の声を聞いてきたわけではない。
人が集まっている場所でマイクを通してしゃべったり、
友達とカラオケボックスで歌ったりする時は、
自分の声が耳に入っているが、
じっくり録音した声を聞きなおすなんてことは、
そんな頻繁にあることではない。
改めて自分の声を聞いてみると、自分の特徴に気づいて、
滑舌の悪さに恥ずかしくなったり、
思ったより情感がこもった発声に関心したりするのだけど、
そういうたまたまの機会がない限り、人は、
自分の日常の話し方を客観的に聞くことはない。
自分の見た目は、毎日、鏡でチェックして、
スマホで撮った写真を見る度に自分の顔を確認しているが、
自分の声や話し方は、まったくチェックしていない。

人が声を客観的にチェックしないのは、
日々、自分の声を聞いている(と思っている)からだ。
自分の顔は、鏡がなければ見れないが、
自分の声は、声を発すれば、聞ける。
体の構造上、なにか口が言葉を発すれば、
それを、耳が聞くことができるような造りに、人は作られている。
僕の目は、ほとんど僕を見てくれないが、
ありがたいことに、僕の耳は、いつも、僕の話を聞いてくれている。
つまらない話でも、けっこうな割合でだ。
それに対して、僕の目は、ほとんど僕のことを見ずに、
僕以外の誰かばかり見ている。
だから、目は、すぐに「客観」に流れる。
いつも「僕意外の誰か」ばかり見ている目は、
「僕」よりも、「誰か」を優先しようとする。
僕がしたいファッションより、世間ではやっているファッション。
僕が気持ちいい服装より、社会が求める服装。
そうやって、だんだん「見た目」は、自分から離れていく。
しかし、自分の口が発した声は、耳がいつも聞いてくれるおかげで、
自分から離れていかない。
耳は、「誰かが求める声」ではなく、「僕の口が発した声」を優先してくれる。
自分が日々、聞いている自分の声は、
たぶん、自分に心地よい声なのだ。
自分の耳が「悪くない」と思うような、
そういう声の高さや響きや抑揚を使って、口は声を出すようにしているのだ。
そこにあるのは、耳と口の協力体制。
「客観」が入り込む余地はない。
だから、自分の声は、自分のものでいいのだ。
「僕以外の誰か」におもねる必要もないし、
毎日、ボイスレコーダーでチェックする必要もない。
しゃべりたいようにしゃべっていい。
もしかしたら神様は、主観と客観のバランスを取るために、
映像には一つ(目)、音声には二つ(耳と口)、
違う個数の器官をあてがったのかもしれない。