色紙

道端を歩いていたら、サイン色紙が落ちていた。
色紙というのは出で立ちからして晴れの日のための物だから、道端に棄てられていると余計に可愛そうな感じがする。
見てられない。
色紙を道端に捨てないでほしい。
着飾った物を晒し者にするのは、マナーが悪い。

時に、サインというのは不思議なものだ。
サインには「意味」がない。
人は小説を読んで感動するが、犬からしたら小説はただのインクの染みである。
そのこと知った時には、インクを見て涙を流す人間の感受性の豊かさに涙を流したものだが、「サイン」というインクの染みには、小説のように、人を感動させるだけの「意味」もない。
サインには、「直筆」という価値しかない。
何が書いてあるのかもわからないし、何が書いてあってもいいのだ。
そこに書かれてあることの「意味」がわからなくてもサインをもらった人が時に涙を流すのは、小説というインクの染みに涙を流すことよりも感動的なのかもしれない。

本来なら、その色紙に「克己(己に打ち勝て)」とか書いてあって、「あぁ、あの人が克己って言ってくれてる」と思うことで力をもらうものなのに、色紙に書いてあるのは書いた人の名前だけである。
名前に「意味」はない。
サインを書く有名人というのは、まったく意味を持たない自分の名前を何枚も何枚も繰り返し書く。
お相撲さんは、まったく意味を持たない自分の手形をひたすら色紙に押していく。
おそらくそれらに最も似ているのはお札で、自分の顔の入ったお金をひたすら刷っているどこかの国の国王は、自分の顔の入った紙が信用になり、価値になることを知っている。
国王の顔が印刷された紙は本当はただの紙きれのはずなのに、それ一枚で高価な物と交換することもできる。

だからスポーツ選手や芸能人は「個人造幣局」みたいなもので、国王と同じようにお金を刷っていて、ぼくが道端で見た捨てられたサインは、ハイパーインフレを起こして紙くず同然になったアルゼンチンペソみたいなもので、何とも交換価値がなくなった紙きれなんだろう。
ただ、一円玉でも道端に捨ててはいけないように、色紙を道端には捨てないほうがいいだろう。
それは「価値」ではなく、「マナー」の話である。