行としてのケア

「貧乏人に哲学はできない」と言ったのはギリシャ人である。
奴隷制度があったからこそギリシャ哲学は生まれた。

家事や雑事や子どもや老人の世話をしていてはものを考えることができない。
そう思ってみれば、ものを考えられるのは、子どもや老人の世話をしていない人か、それらの世話を外注できる金持ちだけである。
お手伝いさんやベビーシッターを常時頼める人だけが、考える時間を得られる。

その考え方(=思考には金がいる)に反旗を翻したのが禅である。
すべてが「行」。
家事も子どもの世話も、それを通して真理に到るための行為であり、「世話」と別に、「真理に至る道」があるわけではないという。
ラッパーのzornは自身の楽曲の中で、「洗濯干すのもヒップホップ」と歌ったが、「ヒップホップ」を「禅」に変えれば、それは立派な禅思想である。
「洗濯物干すのも、親や子どもの下の世話をするのも、行」である。

しかし、そう言う禅坊主は、「掃除をしろ」、「畑を耕せ」、「床を拭け」と、生活環境を整えようとする行は口うるさく言うものの、赤ん坊や老人を世話している姿を見たことは、まずない。
弱者へのケアを「行」だとは積極的に考えていないのだろうか。

ベトナムの仏僧・ティク・ナット・ハンは、「最も悟りやすいのが、寺の中。最も悟りにくいのが、市井の中」と、日常生活の中で悟ることの大変さを指摘していたが、「ケア」を「行」として採用しないのも、そういう理由からだろう。
ラッパーは、ラップを歌っていればラッパーを気取れるが、洗濯物干しながらでもラッパーでありつづけることは難しい。
同じように、瞑想することで精神を集中させることは容易だが、子どもや老人のおしめを代えつつ精神を集中させることは、より難しい。
「ケア」は、より難易度が高い「行」なのだろう。
ただ、難しい生活があるところには、思想が生まれる余白がうまれる。
多くの老人のケアが必要になる「高齢化社会」や、シングルマザーなど、単身で子どもを育てなければいけない養育環境においては、あらたな考え方が生まれる可能性がある。
「行」としての「ケア」を考えたい。