言葉が足りない

「協調性がありません」
小学生の頃、通知表にそう書かれていたと友人が言っていた。
自分のことについて評価された言葉は、皆、よく覚えている。
誰だって。
僕だって。
「あなた、私に全然興味ないよね」と女性に言われて、
なんでバレたんだろうなと思ったこともあり、
「おまえ、手先起用だよな」と仕事場の同僚に言われて、
この人は僕を何も見ちゃいないんだなと思ったこともある。

自分に対する評価が的を射ていようが外れていようが、
他人に言われた評価コメントは、記憶に残る。
いい評価は覚えているが、悪い評価はすぐに忘れるという人もいるし、
悪く言われた言葉を、まるで「呪い」のように覚えている人もいるが、
人からの評価は、良しにつけ悪しきにつけ、自分を外から見るきっかけで、
それをもとに、人は、自分がどういう人間なのかを考え、
自己像を形成していく。

しかしながら、日本では、この「人を評する言葉」が、圧倒的に少ない。
誰も思ったことを口にしないこの国では、
称賛も批判も応援も叱咤も、そっとその人の心の中に収められる。
言葉ではなく空気によって、
自分がどう見られているかを察しなければいけないこの国の人たちは、
客観的な視点を欠いたまま、曖昧な輪郭の自己像を形成していく。

まわりにどう思われているかわからず、
自分がどういう人間なのかもわからない。
自分がどう評価されているかについて確信が得られないまま、
ずるずると、子どもたちの自己肯定感は下がっていく。
(日本の子どもは他国の子どもよりも相対的に自己肯定感が低い)

お前はこういうことに長けている。
君の考え方は、こういう傾向がある。
そう、自分の性質を客観的に分析してくれる人は少なく、
面と向かって教えてくれる人はさらに少ない。
褒める言葉や貶す言葉自体が、日本では直接ぶつけられないのに、
分析的な言葉や評価的な言葉は、さらに知らされることがない。
そして、自分がどういう人間かまったくわからないまま大学3年生になり、
急に、自分がどういう人間なのか他人に伝える必要に迫られると、
自己分析シートや適性診断テストという、
よくわからないツールで、自分を知る努力をしなければならなくなる。

「協調性がありません」
そう通知表で書かれたことを友人が大人になった今もそれを覚えているのは、
通知表以外で、先生から自分の性質についてもらった言葉がないからだ。
一年間ずっとクラスで成長を見てくれたはずの先生は、
僕たちに、2行×3回(学期)=6行分の言葉しかくれなかった。
僕たちに対する印象や評価は日々あっただろうが、
それは、そっと先生の心にしまわれ、先生の記憶とともに消えていく。

SNSが発達し、誰もがコメンテーターばりに発言できるようになっても、
身近な、目の前の人への評価はなされないまま。
本当にコメントしたりリプライしたりしなければいけないのは、
画面越しの人にではなく、目の前の人に対してなのだけどな。

(ただ、親密な人からの客観的評価は、気恥ずかしかったり、空々しくなったりするので、たまに会う人やたまたま会った人など、新鮮な目で見て、客観的言葉をくれる人との関係が必要なんだと思うな)