誰もがみんなマイノリティ

昭和の終わりに書かれたある評論文を読んだ。
その本の中で、「自分を中流だと思いますか」という問いがあり、
9割以上の日本人が「はい」と答えたと、評論家である著者は嘆いていた。
一億総中流化を実現できたのが我々の経済的勝利だとしても、
君たちは、その同質性に違和感を感じないのかと。

令和になった現代で同じアンケートを取ったら
どういう結果になるのかはわからないし、
たぶん、どこかでそのようなアンケートは取られているのだろうが、
だいぶ、結果は変わるのだろうなと想像する。
自分が「中流」だと考える人は減ったように思うし、
そもそもなにを「中流」としていいのか、基準が見えなくなった。

そう考えると、まったく関係ない話だが、
「一億総中流」のただ中にいた人たちは、
「私は友達が少ない」とは言えなかったんだろうなあと、思う。
僕は高校生の頃から友達が少ないことを自認していたが、
そのころ、周りに「自分は友達が少ない」と言う人はいなかった。
友達が少ないことがまだ恥ずかしかった頃で、
友達がいなくても、たくさんいるふりをしていた。

しかしここ十年ほどで、周りにもマスメディアの中にも、
「私は友達少ないから」と言う人たちが現れるようになった。
友達が少ないことがそれほど恥ずかしいことではなくなり、
むしろ、自分の特徴の一つとして前に押し出してもいいことになったようだった。
それは、アニメやマンガを愛好するオタクが市民権を得るようになったことと同時期。
マイノリティであった人たちがマイノリティを公言できるようになり、
自身のマイナス面として隠していたこともさらけ出せるようになった。
地元を笑い飛ばしたり、太っていることをアピールしたり、
自身を客観視できれば、マイノリティは恥ずかしいことではもはやない。

そうやって、マイノリティが容認されるにつれ、
人は自分の中にあるマイノリティな部分に気がつくようになった。
多かれ少なかれ人はわかってもらえない孤独感を抱えているので、
その「孤独」を人前に出してもいいよと言われると、
経済的、生活環境的にはマジョリティに属する人であっても、
自分の中のマイノリティな部分を、口に出しはじめる。
東京の大企業で働いていても、まだ結婚してないマイノリティの私。
結婚していても、子どもがいないマイノリティの私。
子どもがいても、母と女をうまく両立できていないマイノリティの私。
母と女を両立できていても、こころからの友達がいないマイノリティの私。
そんなすべての質問でマジョリティに属する人はいないにもかかわらず、
人は、自分がマイノリティであるクエスチョンを取り出して、
自身のマイノリティ意識をじーっと見つめる。

例えば、というか、例にしてはざっくりした例で恐縮だが、
日本に330万人ほどいる公務員でさえ、
非公務員と対比させれば、1割程度しか占めておらず、マイノリティということになる。
マジョリティである非公務員は、
自分たちをマジョリティだとは思っていないだろうが、
(そもそも「非公務員」なんていうくくりで考えることもないが)
全体の1割しか占めていない公務員は、一割というだけで、
マイノリティ意識を持つ余地を持つ。
さらに、その公務員の中でさらにその何割かである教員は、
職業全体で見ると、1%程度にすぎないということになる。
1%というのは充分なマイノリティ数値なので、
十分な安定と安心の上に成り立っている教員でも、
「我々はマイノリティだ」と嘆くことが可能になる。

全体の1%であることを盾に、教員が自身の権利や保障を口にすることは、
いつ首をきられるかわからない一般企業の、しかも、
非正規雇用の人たちから見るとなんのことだかわからないだろうが、
自分がマイノリティだと感じた人々は、自身の牙城を必死で守ろうとする。
その守りの姿勢が、自分たちとそれ以外の人たちとの壁となり、
自分たちとその他を大きく隔てる要因になる。
それは教員でいえば、先生たちがあまり他の職業の人と交わらず、
社会常識から切り離されるいうことであり、
同時に、教えている子どもたちに、
教師のマイノリティとしての不遇さを無意識に伝えているということである。
外から見るとおかしな話だが、
マイノリティとしての自意識は他との壁を厚く、固くしていく。

とはいうものの、概して、マイノリティの人々が、声高に
マイノリティであることを公言できるようになったことは喜ばしいことである。
人はひとりひとり違うのだから、
多数であるという理由で、少数の声を押しつぶしていいわけがない。
しかし、同時に「一億総中流」のようなマジョリティの存在も幻想である。
社会には、叩くべきマジョリティなどは存在せず、
無数のマイノリティが固まっているのが現代である。

そんな社会だからこそ、「私は友達が少ない」と公言できるようになったわけだが、
公言できるようになったからといって友達が増えるわけではないし、
友達が少ないのは、どこかにいるマジョリティのせいでもない。
それは、事実であり、結果である。
ただ、多いとか少ないとかは、相対的なものでもあるので、
友達が少ないのではなく、他の人に友達が多すぎるということかもしれないし、
個々人の友達のカウント方法に問題があるということなのかもしれない。
そう、つまり、そんなことは、どうでもいいことなのだ。

自分が社会のどこに位置づけられているか考えることは、
社会的には重要なこともあるが、
私(プライベート)の分野ではさして重要ではない。
社会的なものは、他人と対比させればいいが、
自分の中のプライベート部分は他人と比べても意味がない。
自分に友達が多いか少ないか考えることと同様、どうでもいい。
どうでもいいことは、ただの事実として、
たんたんと受け入れていくよりほかはない。
自分の中のマイノリティに変に引っ張られてすぎるのは要注意。