質問される側

 

若き数学者・森田真生さんから聞いた話で、
ケンブリッジ大学の数学科が受験者を口頭試問する時の話。
例えば、「√i を計算せよ」
という問題を受験者に出したとして、
これを頭の中で、算術として計算しているような受験者はまずだめで、
幾何(図形)として、√i がパッと頭に思い浮かぶような生徒でないと、
ケンブリッジで数学を学ぶ者としては、話にならないという。
問題に対する答えだけでなく、その過程もちゃんとチェックしている。
「計算せよ」と言われたのに計算してはいけないなんて、

なんて理不尽な試問・・・。
数学科というのは、特殊なところだ。

面接で受験者のどこを見て、どんな質問を投げかけるかは、
人のどんなところを重要視しているかということとつながる。
志望者と1対1の面接をするだけでは人を判断できないからと、
面接ではなく合宿を開いて、集団生活での振る舞いを見る企業もあるし、
魚を食べさせて、その食べ方で人を判断するという社長もいる。
企業や学校の数だけ、「人の見方」は、存在する。
ただ、選ぶ側に「人の見方」がたくさんあるということは、
その企業や学校の「人の見方」に注目すれば、
「選ばれる側」が「選ぶ側」を判断できるということでもある。
企業や学校は、就活生や受験者を判断しているつもりでも、
面接の仕方によっては、受験者から判断されている可能性もあるということだ。
面接対策本に出てきそうなありきたりな面接をしているってだけで、
学生の志望先から外されている可能性だってある。
「選ぶ側」だからといって、油断はできない。

講演会などの人が多く集まる場所での質疑応答で、
日本人はあまり積極的に手を挙げないが、
それは、質問の内容によって、質問者自体が人に判断されるからだ。
トンチンカンな質問をして、トンチンカンな奴だと思われたくない。
みんなが聞きたいことと違うことを質問して、空気の読めない奴だと思われたくない。
そういう心理が働くと、人は質問に慎重になる。
人になにかを質問することは「攻め手」のように見えて、
実は誰かに判断される「受け手」だったりする。
ケンブリッジの数学科の面接で「√i を計算せよ」と試問した時、
「あぁ、ケンブリッジでも、この程度の質問か」と、
逆に、受験者に質問者の資質を計られている可能性がないわけではない。
質問するということは、いつも、諸刃の剣なのだ。
ただ、ケンブリッジの面接で、そう思える受験者がいたら、
多分、数年後にその子は、面接する側に座っていることだろう。