鬼滅の甘み

鬼滅の刃の映画が絶好調らしい。
コロナ禍で映画館に人が寄り付かない状況もあり、映画館にとっては救世主並みの扱いだという。
よかったね。

『鬼滅の刃』は、人間と鬼が戦うストーリーである。
それだけ書くと、『桃太郎』的な話にも思えるが、実際は大正時代くらいが時代背景として設定されている。
(でも桃太郎という正統派民話を下敷きにしているからこその幅広い共感なのかもしれない)

妹が鬼にやられて鬼にされてしまった主人公は、妹を救うため、鬼たちを退治する。
鬼たちは人間を襲う非道な悪なのだが、彼らももとは人間だった。
それが、なんらかの憎しみや不幸から鬼になる道を選んだのだ。
自分の妹を鬼にさせられてしまった主人公は、その鬼の悲哀を知っているので、鬼に同情する。
鬼を「完全な悪」と主人公が見なさないので、作品の中で、かつて鬼が人間だった頃の優しさや平凡さが描かれる。
どんな非道な鬼にも過去描写があって、以前は普通の人間だったことが示された後に、死んでいく。

その描写に、僕が『鬼滅』についていけない理由がある。
同情で「悪」が理解できるだろうかと思う。

そう年下の友人に言うと、「そんなこと言ってると、若者から総スカン喰らいますよ」と返される。
ああ、鬼滅の刃が売れているのは、こうした「優しさ」に関する共感も含まれているのかと、気付かされる。

鬼は「悪」だが、鬼の気持ちだってわかる。
かつては同じ人間だったのだから、鬼とわかりあえる部分もある。
そうした「優しい」眼差しが、作品全体の柔らかな雰囲気を作っているし、それを読者は好んでいるのだ。

そう思えば、昭和のマンガ『ドラゴンボール』の悪役(フリーザとかセルとか)が、同情の余地のない完全な悪だったのに対し、平成のマンガ『ワンピース』では、悪役でも同情の余地が描かれていた。
悪役の生い立ちを描くことで、善と悪が明確には分かれていないこと、悪の道に入るには入るなりの理由があること、見方が違えば善もすぐ悪になってしまうことが示されていた。
それは、勧善懲悪ではない世界観で、現実の複雑さを反映していた。

その流れで言うと、令和のマンガ『鬼滅の刃』も、悪に対する「優しい」目線を持っている。
「鬼も元々は人間なのだ」という考え方は「優しく」、「同じ」を前提にした見方は、「包摂」につながる。
「”鬼畜米兵”だというけど、”同じ”人間だ」「クジラも”同じ”生き物だ」と考えられれば、自分と同じように、相手のことを大切に扱えるようになる。
「同じ」は「優しさ」につながる。

しかし、「同じ」とは、「考え(=頭)」から発している。
解剖学者の養老先生は、「”同じ”は”考えること”、”違う”は”感じること”」だと言っていた。
りんごを一個一個触っていけば、それぞれ”違う”りんごであることが、感触からわかる。
しかし、頭(=考え)は、それらのりんごをすべて「同じ”りんご”」だと把握することができる。
それは人に対してももちろん同じことで、我が子は他の子どもとは”違う”かけがえのない子どものはずだが、統計上では、我が子もよその子も、”同じ”ただの「子ども一人」とカウントされる。

現代産業社会で人が大切に扱われないのは、人が「頭の中」にしかいないからだ。
頭の中だけで、「人が足りないから、一人補充しよう」「今月は売上が低いから、あと1000人は呼び込みたいな」と考える際、その「人」は、数字としての人であって、身体を伴った人ではない。
頭の中の「人」は、入れ替え可能な人なのだ。
「考える」ことだけを推し進めて、「感じる」ことを放置すれば、人は「違い」を無視して、「同じ」を進めていく。

そこで『鬼滅の刃』なのだが、作品中の主人公は、鬼と人を「もとは”同じ”」とみなす。
「同じ」だから、同情の余地もあるし、わかりあえる可能性もあると。
しかし、そこには「身体」が欠けているように感じる。
「身体」があれば、鬼と人間が違うことをもっと感じるはずなのに、主人公は鬼に同情する。

ただ、主人公が「鬼も人間も元は同じ」と考えるのは、実の妹が鬼にされたからで、妹が鬼になってしまったがために、鬼と人間の間に明確な線を引きたくないのだ。
それは、「俺の妹を他の鬼と”同じ”だと考えるな」ということで、実のところ、主人公は「鬼と人間の間に線を引きたくない」のではなく、「妹と他の(正常な)人間の間との間に線を引きたくない」のだ。
主人公は当然、妹を唯一無二だと考えているが、それは、妹が他の人間とは違うことを「感覚」として感じてきたからだ(それは主人公に限らず、すべての生き物が感じていることである)。

『鬼滅の刃』はバトル漫画で、日本刀で殺し合うシーンばかりが続くのだが、身体性はあまり感じられない。
体を切られても折られても、あまり、痛みが伝わってこない。
リアルな殺し合いではなく、イメージの中で戦っているようなので、読者の多くが女性というのも頷ける。
グロくないし、痛々しくない。
その身体性のなさが、頭の中から発する「同じ」を可能にする。
そして、その「同じ」が、僕には、「甘さ」に感じられる。

話は変わる。
もう世間の人は他の新しいニュースに忙殺されて忘れていると思うが、ほんの一、二ヶ月前、日本のトップスイマーが自身の不倫によって、年内の競技活動を中止した。
スポンサー契約を多数結んでいたそのスイマーは世間のバッシングを受け、スポンサー契約を打ち切られたり、違約金を請求されたりしたらしい。
それ自身は身から出た錆なのでどうしようもないが、あろうことか、水泳協会は、そのスイマーの年内の代表活動への参加を禁止した。
不倫すると、水泳選手としての活動を制約されるのだ。
本人と奥さんの間のプライベートのいざこざと、本人とスポンサーの間のビジネス的ないざこざが、競技選考に影響するのはナンセンスだと思うが、それよりも驚くのが、世間の人が、水泳選手を「自分と同じもの」として考えてバッシングしていたことだった。

世間の人が、ある特定の人をバッシングするのは、自分とその人を”同じ”だと考えているからだ。
「同じ人間なのに、こんなことやって許せない」「同じ日本人なのに、こんな態度、許せない」と。
しかし、水泳選手とあなたは、果たして同じような人間だろうか。
4年先の大会でたった、2秒、3秒速く泳ぐためだけに、毎日欠かさずプールに入って、黙々とただただバタ足をしている人を、僕は自分と同じだとはみなせない。
違う感覚があり、違う考え方があり、違う人生観があるんだろうなと思う。
だから、不倫していても、(もともと他人に興味はないが)、なにか事情があるんだろうと思う。
自分が知る由もない事情があれば、人を判断することはできない。

そんな話をするのは、『鬼滅の刃』の「優しい目線」がこの話に似ているからだ。
主人公(=作品)が鬼に対して「元は自分と同じ人間」とみなして同情するのは、「私はあなたを判断できる」と考えているからだ。
世間の人がスイマーを「同じ日本人だ」と考えるように、主人公も鬼を「同じ」と考える。
だから、バッシングもするし、同情もできる。
しかし、それは、傲慢というか、頭の中だけで考えた話であるように思う。

毎日、バタフライばかりしすぎて、三角筋だけ異常に出っ張ったたスイマーの背中を見た時、人間の足に貪りつく鬼の唾液に触れた時、スイマーや鬼を、自分と「同じ」だと思うだろうか。
感覚を置き去りにした考えはぬるい。
どんなに「異文化融合が大切だ」と訴える人でも、隣の部屋から漂ってくる異国の異様な香辛料や聞き慣れない民族音楽のループだけで、考えを改める人もいる。
感覚は好意や嫌悪に結びつきやすい。
頭の中だけで完結した「同じ」は、危うい。

毎日、一緒に住んでいれば、兄妹でも親でも自分とは「違う」ことを感じる。
その「違い」を前提とすれば、人は「同じ」を探る。
違っていても、同じ部分でわかりあおうとする。
もし、前提が「違い」ではなく「同じ」であれば、とても息苦しい。
「私たち、同じだよね」という圧力は、家族であっても友達であっても、人を縛る。
そこに安心はない。

前提は「違うこと」。
そのために「感覚を大事にすること」。
『鬼滅の刃』を読んでいる人にはそう言いたいが、鬼に対して安易に同情しているのは主人公だけで、主人公以外のキャラクターは、鬼に対して嫌悪感しか抱いていない。
そして、そもそも『鬼滅の刃』には、主人公よりも人気があるキャラクターが多数いるので、読者はまったく、主人公の考え方に肩入れしていないのかもしれない。
そうであれば、これはすべて杞憂ということになり、めでたしめでたしである。