ikigai

「IKIGAI(生きがい)」という言葉はすでに英語になっているらしい。
「生きがい」ってのは、多分に日本的な言葉というなのだろう。
そういえば、「KAROSHI(過労死)」という言葉も英語になっているが、
「生きがい」と「過労死」を同時に海外に輸出している日本社会って、一体・・・。

「生きがい」という言葉はどこか、「しあわせ」に似ている。
日々、やることがあり忙しくしている人はそんなことについて考えもしないが、
暇な時間が増え、ぼんやりするようになると無駄にそのことについて考えてしまう。
「私って、幸せなのかしら・・・」

考えて「幸せ」になれるのなら考えればいいが、
考えたって「幸せ」に近づくわけではないわけで、
そうであるならば、「そんなことは、考えるだけ無駄だ」とするのが
「大人」の対応というものだ。

作家の川上未映子さんは、子どもの頃、「死」について考え始めると怖くなり、
母親に「死」について質問しまくっていたらしいが、
そんな時、決まって、母親は、
「その辺、走ってこい!」と川上さんを一蹴したらしい。

考えてもどうしようもないことを考えることは時に大切なことだが、
それを一蹴して相手にしないのは、世間に生きる大人として、正しい対応だ。
「生きがい」などと言っているのは、定年後のおじさんや、
仕事に意味を見いだせなくなった壮年のおじさんで、
日々の仕事に疲れ、
「もっと社会的に意義あることをしたい」という気持ちもわからなくはないが、
それを声にだして「自分の生きがいを見つけたい!」などと言っているようなら、
お母さんに、「その辺、走ってこい」と一蹴された方がいい。

「自分の生きがいを見つけたい」というのは、
結婚を前にした新婦が、友人たちに向けて
「私、絶対、幸せになるから!」と言っているのと同じで、
「威勢」や「思い」だけが先行している具体例でしかない。
「幸せ」は頑張ってなれるものじゃない。
個人にできることは、「正しい方向に今を頑張ること」くらいで、
幸せになろうと必死こいたからといって、
実体のない「幸せ」に近づけるわけではない。

誰だったか、「幸せってのは、風のようなものだ」と言っていたが、
個人にできることは、「正しい方向に今を頑張ること」ともうひとつ、
「小さな風でも敏感に感じとれる感性を養うこと」くらいで、
ないものを志向したところで、そもそも感じられない人には掴めない。
「いきがい」も「幸せ」と同じで、
「俺のいきがいってなんだろう」なんてこと考える暇があったら、
”その辺を走ってき”た上で、
ちょっとでも眼の前の仕事を意義あるものにする方法を考えた方がいい。
「いきがい」を探してしまうような人は、
以前、「自分」のことも探していた人なのかもしれない。
探したってないものはないし、
探さなくなってあるものはある。

「いきがい」も「しあわせ」も、追い求めるものではなく、
後ろを振り返って、後から「案外、しあわせな日々だったかもねえ」
「あれは、いきがいだったかもな」と感じる点で共通していて、
その瞬間、瞬間は、ただただ、「懸命」でしかないはずだ。
「これは俺のいきがいだぁ」と思いながら、
ボランティアしたり登山したりペットの世話をしている人なんか、
気持ち悪い。

それに、ボランティアのような「対象」があるものに、
自分のプライベートな「生きる甲斐」を乗せてはいけないし、
登山のような本来楽しむべきものに、「甲斐」なんか乗せると、いやに重くなる。
「いきがい」なんかなくても生きていけるし、
「しあわせ」でなくても生きていける。
ただでさえ、人が暇になり、
今後、AIの出現でより人間にやることがなくなると言われているのだ。
「いきがい」がなければ、「しあわせ」を感じなければ
のような強迫観念はなるべく遠ざけたい。
なにかの目的のために人生があるわけではない。
明石家さんまは「生きているだけで丸儲け」と言っていた。
「しあわせだなぁ」と、しあわせのことを普段から口にしていいのは、
加山雄三くらいだと理解しておきたい。