サウナ

うちの近くには何軒かの銭湯があるが、北に上がるにしたがって、つまりは、街の中心部から離れるにしたがって、タトゥーの入った客の割合が多い銭湯が増えていく。
昨日、ふらっと、汗をかいた体で立ち寄ったのは、街の最北部寄りの銭湯、タトゥー多め、湯熱め、コーヒー牛乳安めの銭湯『鈴成湯』である。

鈴成湯のジェットバスに顎まで浸かりながら、昨日見たサウナの効能についてのテレビ番組をふと、思い出す。
ここ数年、サウナが流行っているが(第四次ブームらしい)、サウナで「整う」と言われている一連の流れ(「サウナ→水風呂→クールダウン」)は、科学的見地から説明できるらしく、専門家がテレビ番組内で詳しく説明していた。

その番組によれば、高温のサウナに入ると、身体は生命の危機状態と認識するという。
あまりの暑さに、一気に交感神経が優位な状態になり、身体はストレス状態になる。
じりじり。
そこで、サウナから出てすぐに水風呂に入ると、今度は、一気に副交感神経が働くようになり、身体はリラックス状態に入る。
そしてそこで水風呂から出て、平温の場所でクールダウンに入ると、「体はリラックスしていながら意識は冴えている状態」となる。
これが「整っている」と言われる状態なのだという。

この状態は、仏教の瞑想や、スポーツ選手のゾーン状態と似た話で、「頭は冴えてるのに体には無駄な力が入っていない」という超集中状態。
ストレスがかかってもいないし、緩んでもいない状態のことである。
そのコンディションを、サウナと水風呂の温度差によって作り出すのが、最近の流行である「整うサウナ」である。
400円程度で誰もが最高の状態へ到れるなんて、この上なく安い話。
お値段以上。

でも、別にサウナがなかったとしても、整わなかったとしても、銭湯は最高なのである。
鈴成湯で一番大きな湯船の中では、大学ラグビー部の男たちがいちゃいちゃと体を触れ合わせているし、バイク屋の広告が貼ってある鏡の前では、骨と皮だけになった爺さんが目を瞑りながら頭を洗っている。
奥のサウナのドアを開けると、中では、年金支給日の翌日なのに既に競馬ですべてを失ったおじさんが賭けることもできない次のレースの予想を真剣に語っているし、サウナを出て水風呂に浸かっていると、色彩鮮やかな紋々の入ったおっさんが後悔と諦めの入り混じった顔で虚空を見つめている。
風呂を出て、脱衣所に戻ると、ちんぽこぶら下げた子どもが腰に手をあててコーヒー牛乳を飲んでいるし、扇風機の前では、全身の毛という毛をきれいに剃ったマッチョな男がうっとりとした顔で自分の両胸を撫でている。

ここには、生まれてから死ぬまでの間に生きている人の体の見本がある。
普段、テレビの中に映される人間は、下衆く小狡い姿ばかりで、SNSから流れてくる人間も、加工され着飾った嘘の姿ばかりだが、ここには、肯定も否定も必要ない、無作為の、生の人の体がある。
崇高でも下卑でもないただのニュートラルな体。
ただ、湯船の熱いお湯によって垢が落とされ、少しだけきれいになった分だけ、銭湯後の体はいいものに思える。
水風呂の中から虚空を見つめている入れ墨のおっさんの姿を、脱衣所から、すっ裸でちんぽこぶら下げた小学生の目線で見ていると、なんだか童心に帰れた気分になる。

銭湯は、サウナと水風呂の温度差を利用して「整わせ」なくても、僕らを「ゼロポイント」に戻す。
銭湯は、ぼくらがかつて単なる優しい少年であったことに気づかせてくれる場である。
言葉を獲得する以前の、ただの生き物としてのぼくら。
銭湯の表の暖簾は、今日もコンコンと湯が湧いたことを街に知らせる。

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