中学・高校では子どものことを「生徒」と呼ぶが、
大学では、「学生」と呼ぶ。
中学・高校では授業のことを「教科」と呼ぶけれど、
大学では授業を「教科」とは呼ばない。
大学で学ぶことは「学問」であって、「教科」ではない。
高校までの教育と大学以後の教育の、厳密な分け方は、
あまりよく知らないけれど、
感覚的には、「義務教育までとその後(の教育)」の間に引かれた法律的な線よりも、
「高校までとその後(の教育)」の間に引かれた線の方が、
くっきりはっきりしているように、感じる。
中学・高校では、「教科」を教えているので、
生活上の必要な能力を身に着けさせるために、
決められた時間内に決められた量を、急き立てるように教えているが、
大学では、教えているのが、
本来、生活のためには大して必要でない、「学問」なので、
急き立てて教えることもないし、
なにより、教えている先生たちが、けっこう、「ぶらぶら」している。
学問は、一問一答形式の常識クイズとは違い、
長期に渡って問題に取り組む姿勢が必要になるので、
どうしても学者には、「ぶらぶら」が必要になる。
長い目で見れば、「ぶらぶら」することが、効率的だったりする。
それを「無用の用」という人もいる。
戦後のドサクサ時代、
大学で職にあぶれた学者たちが、食い扶持をつなぐために、
しょうがなく高校で教えていた時期があった。
「ガツガツ」知識を詰め込まれていた当時の高校生は、
本来高校にいるはずのない「ぶらぶら」している先生と出会い、衝撃を受ける。
自分たちよりも深い見識を持った人が、
自分たちよりも「ぶらぶら」している!
その洗礼を通常より早く受けた生徒たちから多くの学者が生まれ、
その時の強烈な印象を、後に、回顧録で書いている。
「ガツガツ」と一生懸命に努力をすることこそが是だと信じていたのに、
広い見識を持った人は、「ぶらぶら」しているなんて、
これは、どういうことなんだ、と。
考えることは、たいてい、違和感から始まる。
自分が当然だと思っていたことをひっくり返された時に、
思考は初めて、回転し始める。
あの当時、高校にやってきた先生たちの「ぶらぶら」ぶりに衝撃を受けた生徒たちは、
普段から、「ガツガツ」頑張っていた生徒たちだ。
普段から「ぶらぶら」している生徒が、
「ぶらぶら」している先生に、ピンとくることはない。
「ガツガツ」頑張っていた生徒だけが、
「ぶらぶら」している先生にびっくりし、
「ぶらぶら」することも実は大事なんだろうかと、考え始め、
その後、「ぶらぶら」している先生にも、
”引く”くらい「ガツガツ」没頭することがあることを知るのだ。
「ガツガツ」生きる中で、「ぶらぶら」した大人に会うか、
「ぶらぶら」生きる中で、「ガツガツ」頑張っている大人に会うか。
まだ「学生」でない、高校の「生徒」たちには、
是非、違和感を感じて、思考をゆっくり、回し始めてほしい。