学校の先生の中で、実社会に出たことのある人はほとんどいない。
その事実は、先生や学校が悪く言われる時に、
よく聞かれる批判。
先生たちも、そのことには少なからず後ろめたさを持っているようで、
自身の民間経験がないにも関わらず
生徒の進路指導をしなければいけないことに悩む先生もいるという。
学校の先生や医者や弁護士は「免許制」なので、
誰かの役に立とうが立つまいが、
免許を持っていれば、「先生」ということになる。
そこは、「実」よりも、「名」が優先される世界。
中国の鄧小平は、
「黒い猫でも白い猫でも、ネズミを捕るのが良い猫だ」と言って、
「名」よりも「実」を優先させようとし、
日本の福沢諭吉は、「実学」を標榜し、
「名」だけで威張っていた儒学者たちを批判したが、
彼らの言動が際立っていたということは、
ほとんどの時代では「実」よりも「名」が優先されてきたということだ。
そういう世界では、
ブラックジャックのような「実」があっても「名」がない医者は、
地下で生きていくしか、道はない。
民間企業で働いたことがなく、
学校以外の社会を知らない人間が生徒の進路を指導している。
そういう事実は、多くの学校で当てはまることなので、
先生や学校は、その点において批判されてもしかたないと思うが、
悪いのは、「実」がないことであって、
「名」があることではない。
「先生」という正式に国から「名」をもらっている人でも、
「大事なのは、『実』なのだ」と思っていれば、
自然と、学校外の人と接点を持ったり、
民間企業の人の話を聞きに出かけたりして、
「実」を取りにでかける。
それは、免許がものをいう世界でも、
そうでない世界でも同じことで、
「名」にあぐらをかかずに「実」を求め続ける人は、
自分の知らないことに絶えず、興味を持っている。
さらにいうと、知らないことを知ろうとする背中を後輩(生徒)が見て、
勝手に知的好奇心の大切さを学ばせる人のことを、
「いい先生」と呼ぶのだろうし、
それは免許が必要な世界でも、そうでない世界でも、
同じように起こっていることだと思う。
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