小学生の頃、「他人のことを考えなさい」とか
「周りの人のためになることしなさい」ということをよく言われた。
高校生になると、あまり、そういうことは言われなくなったように記憶している。
単に、先生の話を聞いていなかったのかもしれない。
ただ、高校生に「他人のため」とか「周りの人のため」などと言っても、
一日のほとんどを、”自分のための”勉強の時間として使っている高校生には、
ほとんど届くことはないだろう。
朝から夕方まで、ほとんどの授業が、
自分の点数をあげるための時間であって、
人のことを考えるための時間はない。
高校生は、自分のために頑張ることで超多忙なのだ。
そういう学校プログラムは、誰が主導するでもなくできてしまったのだろうが、
勉強のような個人競技練習だけで、一日が終わってしまうというのも、変な話だ。
なんせ、社会に出てやる仕事は、ほとんどが集団競技なのだ。
個人のために頑張る時期も必要だが、
高校生に限らず、大人も子どもも、自分のためだけに努力できる量ってのは、意外と少ない。
放っておくと、簡単に「自分」なんて易きに流れ、
気づけば、自分のことなんてどうでもよくなったりするものだ。
人は「自分」のことを一番に大事にするけれど、
「自分」のために頑張ってやれるかというと、案外、そうでもない。
大人は経験的にそれをわかっているから、
子どもに対して人参をぶら下げて走らせようともするが、
人参をぶら下げられたまま走れる距離は、そんなに長くない。
どんな人参であっても、バテるのは早い。
一生学び続けなければいけないと言われる”生涯学習”時代に、
「人参」走りは、あまり賢い走り方ではない。
数十年前まで、郷土の人々がお金を出し合って一人の秀才を大学に送ったり、
上の兄弟が働いて稼いだ金で、末っ子一人だけが大学に行くような時代が当たり前にあった。
学校に行って勉強することが、自分だけの問題ではないこと。
勉強して頑張ることが、自分以外の人のためでもあること。
それらのことは、重い責任でもあっただろうが、
モチベーションを維持する点では、利点でもあった。
少年マンガの主人公でも、スポーツ競技のプレイヤーでも、
接戦の末、最後に勝つのは、背負っているものが大きい人間だったりする。
自分の人生意外何も背負わされていない今の中高生は、
ある意味、ハンディキャップを背負っているともいえる。
「自分」のためだけにしか頑張れない。
「自分」のため以外に、頑張る理由がない。
ただ、本当はそれは中高生だけの話ではなく、
大人含めた、現代人すべてに関わる話。
「自分」のために頑張れる量は高が知れているとわかっていても、
「自分」以外の何のために頑張ればいいのかという話。
そう考えると、「人のことを考えなさい」「周りの人のためになることしなさい」
と教えていた、小学校の教育は、まっとうだったのだろう。
そして、大人になって、自分のためばかりに時間を割くことが多くなった後でも、
「人のことを考えなさい」「周りの人のためになることしなさい」
と言われ続けることは、案外、必要なことなのかもしれない。