現役の高校生と以前高校生だった人に送る、素敵な本の紹介。
表題本以外の話にふらふら寄り道、
道草食いながら、あれこれお話します。
向田邦子さんは、ドラマの脚本を多く書いた人でしたが、向田さんのドラマの主人公は、その辺に普通にいそうな人達ばかりでした。どこかで向田さんは、「歴史の英雄が主人公のドラマは書かない」と書かれていました。「書かない」か「書けない」か忘れましたが、表舞台で成功した人の物語を書くのではなく、スポットライトが当たらない、市井の人の物語を書くのが自分の仕事だ、とおっしゃっていました。
そんな、歴史の教科書に載らない人の話を書いていきたいという気持ちは、古典芸能の一つである「落語」に通じるところがあります。落語ってわかりますか?わかんないですよね。わからない人は、youtubeでも見てください。いや、やっぱり見ないでください。多分、「落語ってつまんねえな」と思ってしまう恐れがあります。
落語は、一人で複数の物語の登場人物を演じ分けながら語るスタイルの笑いなので、テレビなどの映像には向かないのですが、昔の落語家は、今のお笑い芸人と同じくらい人気で、テレビにも出ていました。その中の一人に、立川談志という、天才、鬼才と言われた不世出の落語家がいました。
立川談志師匠は、落語とは、「業の肯定だ」と常々言われていました。「業」というのは、仏教の言葉で、「行い」のことです。人間は偉い行いや正しい行いをすることもありますが、馬鹿な行いや愚かな行いもたくさんします。それを全部肯定するのが落語なんだと、言うのです。
それだけ聞くと、「業を肯定する」というのは簡単そうなことですが、どうでしょう。例えばあなたの大切ななにかを盗んだ人がいたとして、あなたはその人を許せますか?許せる人もいるかもしれないし、許せない人もいるかもしれません。僕は、もしその人が泣いて謝ったら、許せるかもしれません。では、その泣いて謝ったその人が、1週間後に、またあなたの別の大切なものを盗んだら、果たして許せるでしょうか。僕には、難しい。
人間の愚かなことや馬鹿なことまで含めて、人の「行い」をすべて肯定するのはとても難しいことです。ただの「いい人」は、他人をまるごと肯定することができません。それができるのは、相手の悪い部分をどれだけ受け入れても、容量が満杯にならない、器の大きな人だけです。器の大きな人だけが、人を肯定したり、許したりすることができます。談志師匠も向田さんも、人間の「行い」を人よりも肯定することのできた、器の大きい人だったと思います。会ったことはないですが、作品を見ると、そう思えてきます。
–2016/06/21−
<次につづきます。>