現役の高校生と以前高校生だった人に送る、素敵な本の紹介。
表題本以外の話にふらふら寄り道、
道草食いながら、あれこれお話します。
向田さんは、普段スポットライトの当たらない人の話をたくさん書いた、と前に言いましたが、君たち高校生の国語の教科書に載っている小説や随筆は、どういう人たちの話でしょう。偉大なことを成し遂げた歴史上の人物が主人公の物語ですか、それとも、日常生活の中でちまちま小さな喜びを見つけてるような人が主人公の話ですか。僕の記憶では、国語の教科書に載ってる話は、ほとんどちまちました話だったような気がします。だから学校の教科書はつまらなかったし、全然記憶に残っていません。
そういう話の分け方ならば、向田さんのエッセイも、後者の、ちまちました主人公の話に分類されます。でも、なぜ国語の教科書には、天下統一を成し遂げた信長の物語や、アイフォンで世界を席巻したスティーブ・ジョブズなどのサクセスストーリーではなく、うだつの上がらない、平凡な男が主人公の文学作品などを載せるのだと思いますか。
それは多分、僕たちが生活の中で耳にする話は、ほとんどが成功したヒーローの話だからです。テレビやインターネットを考えてみてください。テレビに映るのは、世界で活躍するスポーツ選手や、人気のある俳優・タレントです。
ニュース番組で取り上げられるのは、選挙で勝った政治家や、景気のいい会社の社長ばかりです。テレビに映るのは、ほとんどが、うまくいっている人です。上手くいってない人の話をメディアで目にすることはなかなかありません。
もちろんそれは悪いことではありません。世界の舞台で活躍するサッカー選手や野球選手を見て向上心を持つのはいいことですし、スケールの大きな起業家を見て、挑戦する大切さを知ることもいいことでしょう。
ただ、テレビやインターネットは、「今」うまく行ってる人ばかりを映します。今テレビに映るサッカー選手は、今活躍している選手です。怪我をしてしまって日本代表に呼ばれなくなったサッカー選手の今は、テレビには映りません。テレビに出ている政治家も、今、選挙に勝っている人で、選挙に落ちた政治家はまず、テレビ画面には映りません。
別に選挙で落ちた政治家がテレビに出ても出なくても大きな問題ではないですが、メディアがいつも、「今」上手くいっている人を画面に映すと、メディアにはずーっと上手くいってる人たちばかりが映るようになります。去年のテレビには去年活躍した人が、今年のテレビには今年の活躍した人が、来年のテレビには来年の・・・。メディアの中は常に、上手くいっている人で溢れています。
しかし、一人の人物を見た時に、最初から最後まで、ずっと上手くいくということはありません。去年は上手くいったけど今年はなかなか上手くいかなかったり、友達がいるとうまくいくけど一人だと上手くいかなかったり、地元ではうまくやれるけど外に出ると調子がでなかったり、人には、波があります。それが普通です。しかし、うまくいく人ばかりが映るテレビを見ていると、世の中は上手くいっている人で溢れているかのような気がしてきます。そして、それを見ていると、上手くいっていない自分は、必要以上にダメなヤツなんじゃないかと思えてきます。
テレビだけでなく、SNSも同じです。人は、わざわざ情けない自分を発信したりはしません。「恋人とどこどこに遊びに行きました」という投稿はしても、「恋人がいないのでどこにも遊びに行きませんでした」という投稿はしません。
(自虐というネタはありますが、それも、ネタとして人に肯定してもらえる範囲です)
そう考えると、教科書に載っているような平凡な主人公の話は、意味があるように思えます。上手くいっていない無名な人間の小さな努力や勇気には、何か訴えかけるものがあるような気がします。教科書は、うまくいっていない、平凡な人間の話ばかりを載せることで、なにかを伝えたいのかもしれません。
ただ、教科書は、とても無力です。高校生が普段目にするテレビやSNSからの情報量からすると、教科書の情報なんて、あってないようなものです。あってないようなものですが、教科書というか、本をつくる大人は、本を作る限り、平凡な人間の小さな勇気の話を載せるのです。
なぜなら、人には上手くいく時といかない時があり、その時々で必要な話が違うことを知っているからです。人は、時に、成功している人や輝いている人の話に感化されて、前に進むこともありますが、時に、その歩みを止めて、こころの深いところで自分自身と向き合っている人の物語に影響を受けて、再び歩きだすことがあるのです。
「本を読め」と盛んにおとなが言ってくるのは、そういう理由もあったりなかったりするんじゃないかと、ぼくは思っています。
–2016/06/25−
<次につづきます。>