いつぶりでしょうか。
ホテルではなく旅館に泊まることになりました。
それも、昔ながらの、仲居さんが出迎えてくれるタイプの旅館、
つまりは、外国人旅行客が増えた昨今においても、
いままでの日本の「おもてなし」を、外国人用・現代人用にバージョンアップせずに、
従来どおりに継承しているようなタイプの旅館です。
昔ながらの旅館の「旧館」に着いた僕は、
昔ながらの女将からの挨拶を受け、入り口でペンを持たされ、
「お客様必要事項記入書」と「コロナに関する確認書」にサインをさせられます。
そして、コロナ対策として熱を測ったあと、女将による館内の説明が続くのですが、
これが回りくどくて、長い。
「館内の説明」という紙を一枚手渡してくれれば済むのではないかと思ってしまいますが、
これが旅館というものなのでしょう。
僕が欧米人なら、「私の時間はただではないのですが」と言うところでしょうが、
あいにく僕の時間はただのようなものなので、黙って女将の説明に逐一うなづきます。
女将による館内説明が終わり、部屋に通されると、
次に、若い仲居さんがやってきて、自己紹介と「お部屋の説明」が始まります。
これも必要以上に長く、女将の説明と重複する点もあるので省略してほしいなと思いますが、
正座したまま真正面から、顔を覗き込むような形で話されるので、
こちらもきちんと話に反応しないわけにはいきません。
仲居さんに促されるまま、その日の夜の食事と翌朝の食事の内容と時間、
それに布団を敷いてもらう時間などを決定します。
これも、チェックイン時の「必要事項記入書」に記入させておけば、
話さなくても済む話なんじゃ・・と思ってしまいますが、
その思いはぐっとこらえて、仲居さんの説明に、逐一相づちを打ちます。
一通り説明を終えた仲居さんは、
「では、もしお食事をご用意する時間にお部屋にいらっしゃらなかったら、
マスターキーでお部屋の鍵を開けてお食事をご用意させていただきますので・・・」
と、さも当然のように「私はいつでもこの部屋に入れる立場にある」と宣言します。
僕が欧米人なら、「この国にプライバシーってないの・・・」とつぶやくところです。
その後も、部屋でくつろいでいると、
なにかにつけ仲居さんは部屋にやってきては世話を焼き、
別のスタッフは、こちらが過眠を取っていても、布団を敷きに部屋に入ってきます。
こっちが「カスタマー」のはずなのに、旅館って全然くつろげない。
まったく、こっちのペースで過ごさせてくれない。
僕が欧米人なら、肩をすくめて呆れるところでしょう。
翌朝。
朝食を食べるために大広間までいくと、僕が最も遅い客だったらしく、
広い部屋の真ん中にポツンと座らされます。
僕を席に通したあと、給仕さんたちは他になにも仕事がないのか、
広い大広間の端っこに4人、お盆を抱えて横に並び、僕の方を眺めます。
しんとした大広間に、僕の味噌汁をすする音が「ずずずっ」と響きます。
昨夜の晩飯が大したことなかった割に朝ごはんはおいしく、
おかわりを頼もうかと思いましたが、
手持ちぶさたな4人は早く食べ終わってほしそうなので、どうしようか迷います。
いや、でも、なぜ僕が躊躇しなくてはいけないのでしょう。
というか、こっち見なくていいからどっか行ってくれないかな。
彼女らに、「仕事ないなら、裏の仕事手伝ってきて」
という上司はいないのでしょうか。
いや、その前に、
「あんまりお客様にプレッシャーかけるな」という上司はいないのでしょうか。
会場に1人いれば事足りる仕事を4人で回しているのは、
経営側に「コスト意識」があまりないからでしょうが、
この旅館全体に、昔ながらの「おもてなし」の煩わしさを感じてしまうのは、
世の中の旅館と客の関係性が変わってしまっているにもかかわらず、
この旅館だけは、以前の関係性のままで接してくるだからでしょう。
ただ、日本の旅館の「おもてなし」は、海外の「ホスピタリティ」のように、
これまで、客を「カスタマー」とみなさずにやってきた経緯があります。
茶道で「一座建立」というように、日本の「おもてなし」には、
「主」と「客」が一緒になって場を作るという意識があり、
客は、主人からのサービスを受けていればいいだけの
「受け身の立場=カスタマー」とは考えられてきませんでした。
だから、僕が女将や仲居さんを面倒だと思うのは見当違いで、
本来は、仲居さんとの掛け合いも含めて楽しむのが、旅館の良さなのでしょう。
しかし、現代人は「昔の日本人」というより
「現代の外国人」の感覚により近くなってしまいました。
客のためを思う仲居さんの「おもてなし」を「おせっかい」に感じ、
「主」と「客」の交わりを、煩わしく思うようになりました。
江戸時代末期に日本にやってきた外国人による日記に、
おせっかいな日本の従者の話が書かれています。
ある外国人(主人)が従者(日本人)に
「牛肉を買ってくるよう」指示するのですが、
従者は「羊肉」を買ってきます。
「なんで指示した牛肉を買ってこないんだ」と叱責する主人に、
「いい羊肉がちょうど入ってましてね。
牛肉よりも羊肉の方が美味しいですから是非、旦那」と、
従者は、どうしても羊肉を食べてほしいらしく、まったく悪びれた様子はありません。
主人はその言動に呆れてしまいますが、そこに純粋な「人」としての良さを見ます。
これが、江戸時代の「親切さ」であり、
現在にも続く日本の「おもてなし」の一端なのでしょう。
相手の言った通りにただ動くのではなく、相手の要望を尊重するのでもなく、
自分の内側から溢れる「親切心」から生じる行動を最優先する。
相手の気持ちを傍らに置いて、自分の勝手な親切心を押し付ける行為は、
現代では「おせっかい」とみなされます。
しかし、「おせっかい」が社会から消えかけ、
「決められたことだけやればいいんだ」という思考を敷衍するあまり、
社会のマニュアル化、オートメーション化、システム化がいたるところで進行しています。
確かに現代では「おせっかい」というのは煩わしく感じるものですが、
いついかなる時でも「相手への尊重」を「内発的な親切心」よりも優先させてしまうと、
『魔女の宅急便』のおソノさんのような、『ワンピース』のウソップのような、
おせっかいで面倒見のいい人が社会からいなくなってしまいます。
古き良き旅館の旧館くらいには、
煩わしいくらいの「おもてなし」が残っていてもいいような気がいたします。