小さい頃、自分が乗り物酔いがひどかったため、
「子どもは誰でも乗り物酔いするものだ」と思っていたら、
そうではないことを最近、知らされた。
車に限らず、バスでも飛行機でも乗り物には酔っていた僕は、
当時、誰かに聞いた酔い止め方法を片っ端から試していた。
当時はインターネットもなかったので、
それらの酔い止め方法は誰に教わったのだろうか。
「家庭の医学」にでも載っていたのだろうか。
梅干しを食べるとか、耳の後ろを押さえるとか、曲がる方向と同じ向きに体を傾けるとか、
色々やったが、最終的に、手首の筋の間にある「内関」というツボを押すことに落ち着いた。
ここを押してくれる専用のバンドを買い、乗り物に乗るたびに両腕にバンドを巻いて、僕は海の向こうの外国や海の向こうの日本の街へ飛んでいった。
それは乗り物酔いで吐くことがなくなった大人になってからもある程度は携帯しており、いわば、「お守り」のようなものになっていた。
縦に横に揺れる航路で気持ちを波立たせないための「お守り」。
効くかどうかではなく、「それがあれば安心」という気持ちにさせてくれることが大事なのだ。
そうした乗り物に乗って進む航路でのお守りは、バンドや梅干しのような「物」だが、人生という航路をゆく際のお守りは、「物」ではなく「言葉」であったりする。
作家の野上弥生子の「生涯のお守り」は、夏目漱石からもらった「漫然として歳をとるべからず 文学者として歳をとるべし」という言葉だったという。
その言葉通り、野上弥生子は、晩年まで作家活動を精力的に続けた。
一つの言葉が、荒波を超えていく際の「お守り」になるのだ。
今は情報がたくさんあるので、乗り物酔いに効く方法も皆に周知され、「お守り」は誰も必要としていないだろうが、言葉のお守りは、いつの時代もニーズがある。
周りの人に酔いどめのお守りはあげる必要もないし、神社のお守りを軽々しくあげることもできないが、言葉は与えることができる。
言葉のお守りは、神社仏閣のお守りと違い、神様同士がけんかしないところも利点である。
一つと言わず、三つ四つ、携帯して生きていきたい。