「しょうがないって言葉、嫌いです」
そう、昨日会った女の人は、言っていた。
たぶん、気の強い人なんだろう。
「しょうがない」って言葉が嫌いな人にこれまで何人か会ったけど、
その”何人”かは、すべて、外国人だった。
日本人の口から、はっきりとそのことを聞いたのは初めてかもしれない。
以前、サッカー日本代表の監督をしていたオシムさんも、
嫌いな言葉として、「しょうがない」と「切り替え」をあげていた。
日本人は、だれの責任か追求すべき場面でも、なあなあにする。
何が起こったのか考察しなければいけない場面でも、すぐに忘れてしまう。
「しょうがなくない」のに、「しょうがない」で済ませてしまい、
まだカタがついてないのに、「切り替え」てしまう。
そないしとったら、あきまへんで。
そう、オシムは口酸っぱく言っていた。
日本人が「しょうがない」と、つい口に出してしまうのは、
この国が歴史的に、多くの災害に見舞われてきており、
「しょうがない」と思わないとやってられなかったからだ。
もしかしたら、最初は、自然に対して「しょうがない」で済ませずに、
西洋人のように、自然に対抗する方向で進めたこともあったかもしれない。
自然に逆らって、強固な石を上へ上へと積み上げる感じで。
でも、もしそうであっても、たぶん途中で、あまりにそれが無意味なことに気づき、
自然に負けてもかまわない方向に舵をきったのだと思う。
建物はどうせ壊れるんだから、紙と木で作ろうかと。
「しょうがない」と思うことを、仏教では「諦念」といい、
けっこう積極的に、仏教は、僕らに「諦め」を勧めてくる。
仏教において「諦めること」は、「明らかにすること」なので、
さっさと諦めて、無駄な苦悩から楽になろうという勧め。
「僕には才能がない」「俺は器量が悪い」とわかっていれば、
人は無駄なあがきをしない。
わかってないから、明らかにされていないから、
無意味な期待や嫉妬をしてしまう。
「ほんとう」を受け入れてしまえば、
劣等生は劣等生なりに、器量の悪い人は器量の悪い人なりに、
やるべきことをやりはじめる。
次の一歩を踏み出すためにも、まずは諦めよう。
そう、仏教は語りかける。
「しょうがない」と「しょうがなくない」の間には、
なにが「しょうがなく」て、なにが「しょうがなくないか」の線引きがある。
「人事をつくして天命を待つ」という言葉があるように、
人は自分にできないことを「しょうがない」として諦めるが、
その、諦める範囲は、国によって違う。
西洋人からすれば、「しょうがなくないこと」も、
日本人は「しょうがない」と言っているように西洋人には見えるのかもしれない。
そこに、西洋人は、日本人の”甘さ”を見るのかもしれないが、
それは、日本列島の自然と歴史が作ってきた甘さだから、
どうしようもないというか、”しょうがない”。
「しょうがないって言葉、嫌いです」
そう僕に言ってきた女性は、聞くと、海外生活が長い人だった。
やっぱり。
解剖学者の養老先生は以前、
「3年日本を離れると、日本人が当たり前だと思う感覚がわからなくなる」と言っていたが、
その人は、海外生活の中で、「しょうがない」と思っていたことも
「しょうがない」と思えなくなったのだろう。
でも、日本には「しょうがない」で済ませる大勢の人と、
「しょうがないで済ませるんじゃない」と言い放つ少数の人が必要なので、
今後も、気炎を吐いてほしい。