お笑い芸人「ロングコートダディ」の「兎(←こういう名前)」は、中学生の頃、成績が良かったので、よく100点を取ってたらしい。
そして、テストを返却される際、先生から受け取った答案が「100点」なら、そのままその答案を教室のゴミ箱に捨てていたという。
すると、当然のように、先生から、「何してんねん!」と言われるので、
兎は、「あ、別に、なんも、見直すとこないんで」と平然と返していたという。
これ、実際にその場面にいたら、ただの面白い話なんだけど、一体、これは、何が、先生を怒らせているのだろうとも思う。
確かに、「100点」なら見直すところも復習するところもないし、テストは「自分のもの」というか、捨てたとしても誰かに申し訳ないと感じる類のものではない。
先生が怒るのはわかる気がするが、いったい、何を理由にして先生は怒ればいいのだろうか。
例えば、これが、テスト用紙じゃなく、保健室からもらうような「お知らせプリント」だとして、プリントをもらった瞬間、さっと数秒で読んで、「自分には関係ない内容だったんで」と、教室のゴミ箱に捨てたら、多分、僕も、怒るだろう。
それはおそらく、「捨てる」という行為が、「敢えての行為」になるからだろう。
そのプリントの内容がなんであれ、プリントを目の前で捨てる行為は、意味ある行動になる。
ほとんどの人がプリントを捨てない以上、その場でゴミ箱に捨てる行為は、家に持ち帰って、部屋のゴミ箱にいれるのとは違った意味を持ってしまう。
ほとんどの生徒は、その「お知らせ」が大した内容のプリントではないとわかっていても、経験と常識から、とりあえずバッグの中か机の中に入れ、しばらくしてから捨てる。
しかし、その「経験」や「常識」というマナーがわからない高校生が、中にはいるのだ。
僕もかつて高校生だったが、ある美術の授業で、数枚の紙と絵の具を使って、自分の街の風景を立体的に作成するという課題が出て、うんざりしていた。
まったくやる気がなく、とりあえずさっさと仕上げて、遊ぶか友達としゃべるかしたくてたまらなかった僕は、機械作業のように、絵の具を無心で、紙に塗った。雑に。
若く美人で誰にでもやさしかった美術の先生は、やる気のない僕にも、よく手を貸してくれたので、僕は、他の生徒よりも早く、作品をしあげることができたので、どうにか提出する形になったと思った瞬間、「よし、できた」とばかりに、まだ絵の具も乾かぬ、できあがったばかりの作品を先生のもとへ持っていき、先生から草々に「OK」が出た。
僕は、課題から開放された気持ちで一杯の頭の中で、「残り時間、何して遊ぼうかな」と考えながら、自分の席に戻る途中にあったゴミ箱に、「OK」が出たばかりのその作品を投げ入れた。
それが結構、大きな音がしたのか、先生が、パッとこっちに視線を向け、僕もこっちを向いた先生の顔をパッと見たので、その瞬間、目があってしまったのだが、その時の先生の顔といったら、彫刻刀で「悲」って文字を掘って上からバレンで押さえたみたいな「悲しい」顔をしていた。
そして、先生は、小さく、「そんなことしないで」と言って、ゴミ箱から拾った作品を、ぼくの元に持ってきた。
僕は、「別にいらんけどな」と思ったが、先生の顔に浮かんだ文字が「悲しみ」であることくらいはわかったので、とりあえず、「常識的に」、その作品を家に持って帰ることにした。
中高校生というのは、このように、残忍で、無慈悲なことを平気でする。
人の目の前でものを捨てるし、「自分のもの」なら何をしてもいいと思っている。
先生が手伝ってくれたとか、画材を準備してくれたとか、どんな課題にするか時間をかけて考えてくれていたとか、そんなことには考えが及ばない。
言うなれば、高校生は阿呆なのである。
しかし、それが、思春期の人間というもので、自分がいかに阿呆であるかに気づかないのが青春を送る人たちの特権でもある。
そして、その阿呆な高校生も時がたてば、「美術の先生」の立場になる。
そして、自分が「高校生」ではなく「美術の先生」の立場になった時には、そうした阿呆な人間がこの世にいることを許してあげなければならない。
怒鳴らず、(怒鳴ってもいいが)、悲しい目でもって、その行為がいかに阿呆なことかを伝えなければいけない。
それが「順序」である。
やるものはやられるものである。
それと同時に、自分が「高校生」から「美術の先生」の立場になったからといって、かつて自分が阿呆だったことをなきものにしないようにもしなければならない。
今日の「美術の先生」も、かつての「阿呆」である。
そして、今日の「阿呆」も、のちの「美術の先生」である。
「阿呆」と「阿呆に立ち会う人」じゅんぐりである。
ですから、まぁ、大人は、その怒鳴りたい気持ちを落ち着けて、お茶でも飲むしかなく、阿呆は自分が阿呆だと気づくまで時間をかけるしかないということでしょう。