学校はたまに、外部に向けた公開授業をする。
保護者やまちの関係者など、誰でも授業を覗きにきていい機会なのだけど、
わざわざ見に来る人は、いつも限られている。
だから生徒たちも誰も知り合いはこないだろうと油断してるのだが、
この前、こっそり女子生徒の母親と一緒に授業を見学に行った。
授業を見に来ている大人にまったく気を払っていなかった女子生徒は、
一瞬、教室の後ろを振り返り、
自分の母親が来ていることに気付いて、静かにつぶやいた。
「だるっ」
最近の高校生はそういう時に「だるっ」と言う。
少し前なら「うざっ」と言っていたような気がするけど、
今は「だるっ」かぁ・・・。
そう思って、「うざい」と「だるい」の違いを考えていた。
「うざい」と「だるい」は、たんに、時代の違いによるトレンドのような気もするが、
ちょっと考えると、「うざい」と「だるい」の間には、”方向”の違いがあることがわかる。
英語で言うとわかりやすいのだけど、
英語ではこういう時、
「I am(feel) irritated.(私はいらいらさせられている)」と言うか、
「You are irritating (me).(あなたは私をいらつかせている)」と言う。
私が「いらつかされている」のか、
あなたが「いらつかせている」のか、
言葉を向ける矢印の方向が逆。
そう考えてみると、「うざい」は「You are うざったい」であり、
「だるい」は「I am(feel) だるい」だ。
それと同じ、言葉の矢印の方向性の違いは、他の若者言葉にも見られて、
今、若い子が簡単に口にする「きもっ(気持ち悪い)」は、
「I am 気持ち悪い」だ。
「お前、きもっ」など、「きもい」は誰かを攻撃している言葉だけど、
表現としては、「私(の気分)が、気持ち悪い」わけで、
「”お前が”きもち悪い」わけではない。
本来は。
「きもい」と同じように若者が頻繁に使う「むかつく」も、
「胃がむかつく」という表現があるように、
「I am(feel) むかつく」。
矢印は相手でなく、自分の方に向いている。
「いらつく」も同じ。
「I am いらつく(いらつかされている)」
矢印は自分。
(「苛々しい」という形容詞はあるけれど、あまり一般的でない)
大学生の時、佐賀弁で鬱陶しいを意味する
「やぐらしか」と「せからしか」の間にある違いを考えていた時、
この矢印の違いに気付いた。
「めんどくさか」は「I am(feel) めんどくさか」、
「せからしか」が「You are せからしか」。
この違いに気付いた時は小躍りして喜んだが、
周りにこの違いを説明してあげても、誰もなんの反応もしなかった。
こんな些細なことは、どうでもいいのだろう。
そうやってあらためて若者言葉をあげていくと、
「I am」の表現が多いことに気づく。
「You are」型の表現を並べようとしても、
「うざい」以外、出てこない。
そう考えると、「うざい」って相当強い表現だったのかもしれない。
だとしたら、若者の言葉が、「うざっ」から「だるっ」に変わっているのは、
いいことなのかもしれない。
「だるっ」には、そこはことない疲労感が感じられるが、
一時期、「ムカつく」「キレる」と急に豹変する子どもたちが恐れられたことと比べれば、
穏やかでいい気がする。
ただ、10代の少年少女がそんなに「だるく」ていいのかという問題は残る。
まあ、なんにしても、言葉は、時代を反映している。
今の子たちは、相当「だるい」のだろう。
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