ようこそ

日本の子どもは他国に比べて、自己効力感が低いという。
自己効力感は、自己肯定といってもほぼ差し支えない。

されど、自己効力感の高い国ほど、よい国なのかどうかはわからない。
裏付けのない自己の肯定は、自信のなさの裏返しである。
それは海外に目をやらずとも、近くの14歳を見ていれば、わかる。
安定している者は、無駄に自己を誇らず、
安定している者は、自己に閉じていない。

自己肯定を問題にする人の多さを見るにつけ、
自己肯定の先に世界肯定はあるのだろうかとの疑問が頭をもたげる。

宮沢賢治には、世界肯定が先にあり、自己肯定を云々する前に死んでしまった。
というか、自己が溶けた世界を肯定するような人にとっては、肯定されるような自己など、とるにたりない。

自己を肯定することが本当に大切なのか、と世に問いたい。
子どもに「自己を愛すること」を教える前に、「世界を愛すること」をおろそかにしてはいないかい。いるだろうよ。そうだろうよ。
たしかに、子どもの自己肯定は親の役目であり、親が子どもの自己肯定感をあげるために、
「母はあなたを愛してますよ」と向き合うことは悪いことではないだろうが、
それが「自分だけ」を愛することにつながり、自分と世界とのつながりを断絶させていることになってはしまいか。しむだろうよ。そうだろうよ。

手のひらを開かねば
新しいものは手に入らない
自分を大事にするばかりに
自分の手のひらを閉じてしまえば
自分の「殻」は意固地になっていくばかり

たとえすでに神がもうこの世にいないとしても
小川の水しぶきの清らかさや
コガネムシの表皮の鮮やかさや
初秋の風の柔らかさの謎が
解かれたことにはならない

世界はいまだ謎に満ち
生成しゆく子どもたちに
「ようこそ、こちらへ」
といえるだけの十分な世界はあるのではなかろうか。あるだろうよ。そうだろうよ。

そうであるなら
やるべきことは自己を肯定させようとするだけでなく
世界を肯定させようとすることなのではないかね。
先に生まれたものたちとして。
先に死にゆくものたちとして。

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